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(写真1) マーストリヒト最古の城壁(1229年に建設)
(写真2) 城壁の狭間(弓矢などを打つ穴)

(写真3) 城壁(中央左側は倉庫?、高い所は5m位ある)

(写真4) アルフォンスの銅像(中央の立像。座像は学生か?)

(写真5) (上記銅像の反対側にあった)レリーフ板

マーストリヒト市内観光その15

2013年12月25日
(オランダ時間)
 前ページには、マーストリヒト市内観光で、マース川に掛かるホーヘ橋を渡って直ぐという感じの所にある城壁、池(堀)や公園、さらには最初の目的地だったビショップス・モレン(司教の水車)などについて書きました。

 その後、来た道を少し戻る感じでマーストリヒト最古の城壁がある通り入口までを書きました。このページは、その続きで、主に城壁と マーストリヒ大学周辺にあったアルフォンスの銅像などについて書いていきます。

マーストリヒト最古の城壁

 シント・ピーテル通り(Sint Pieterstraat)の三叉路の角に「Cafe de Pieter」という店がありますが、この店の今度は、右側(西側)へ行くと、進行方向の左側(西側)に今までマーストリヒト市内で沢山見てきた造りと、やや違う感じの城壁が続いていました。(写真123を参照) この城壁の側道は、ラング・グラハトジェ通り(Lang Grachtje)と、言うようです。

 マーストリヒト市内には、数多くの城壁がありますが、ここが最古の城壁と言われています。見るからに、頑丈そのもので、しかも、ところどころには、弓矢などを打つための狭間(注1)までありました。

<(注1) 狭間(さま)とは、城壁・櫓(やぐら)・軍船のへさきなどに設け、内から外をうかがったり矢・鉄砲などを用いたりするための小窓。石狭間・矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間・隠し狭間などがある。(国語辞典の大辞泉より)

 見た感じで城壁の造りは、2層構造みたいで壁の厚さは2.5〜3メートル位で、 アーチ型の形状が連続しているように見えました。また、先端まで歩いた後になって分かったのですが、この城壁横を私達が歩いた長さと限定した場合、目算ながら100m強でした。

 あと、城壁の高さは、平均部分で日本の平屋建て屋根の高さ(4m)位で、高い所は5mを越していたようでした。また、この城壁の説明坂が入口と奥側に2箇所あったのですが文章全体、私は当然読めませんでした。しかし、西暦年などの数字から、 この壁は1229年に建設されているようです。

 1229年と言えば、日本では鎌倉時代の前期頃ですから、それから2013年現在で784年も経っています。もちろん石造りでしょうから元々頑丈でしょうし、さらには修復整備もされたと推測されます。それにしても、風雪にも負けず忽然と建っている城壁は、周囲の雰囲気を圧倒しているようにも感じました。

  また、 私は、この城壁を見て、いくつか驚いたことがありました。日本ならば古い建造物は、たいてい通行の邪魔になるなどの理由から全て撤去されるでしょう。でも、ここでは現在でも残っているということ、また城壁を生かして店舗や倉庫などで活用されていることです。

 さらには、私達のような観光客が、この城壁を目的にラング・グラハトジェ通り(Lang Grachtje)などを歩くという観光資源にもなっている点です。改めて、マーストリヒト市民の古い建造物を大切にして、創意工夫をしながら活用されている点をつぶさに見学して感心しました。

 道幅も狭い関係か、私達が歩いた日時だけだったのかは不明ですが、車の通行はありませんでした。いずれにしても、この城壁が造られた当時にタイムスリップした感覚で、通りをゆっくり、ノンビリと数枚の写真を撮りながら歩きました。

マーストリヒ大学周辺にあったアルフォンスの銅像

 先ほどの城壁に別れを告げ、南西方向に進むと南側に、この付近では大きい建物であるマーストリヒ大学がありました。この大学の横に木立を挟むように左右2本のフローテ・ローイエルス通り(Grote Looiersstraat)がありました。

 この木立の通りは、学園界隈にふさわしく静かで落ち着きがあり、この日はクリスマス休暇の関係からか、たまに若い方の自転車が通る程度でした。あと、勝手な想像ながら、これだけの木々が沢山あると、夏でもこの周辺は涼しいのかもしれないなあとも思いました。

 まだ、この木立の道を全部行かない内に、四差路があり、その周辺に、ちょっとした狭いデ・ボスウト広場(De Bosquetplein)がありました。その周辺に、先生が3人の学生と並んでいるのか、あるいは何か教えているような雰囲気の銅像(先生が立像、他の3人は座像)がありました。(写真4を参照)

 ここで、この銅像について、私達は少し話をしました。「よく分からないけど、この立像は先生みたいな人だろう。もしかしたらマーストリヒト市や大学と関係ある有名人かなあ?」、「だから、大学近く広場に銅像があるのかも?」などの意見も出ましたが、この時には真相は分からずじまいでした。

  この銅像の件、帰国後、私は色々と調べてみました。ヒントになったのが、銅像前に文字坂があったので、私は写真を撮っていました。その写真には、「(上段に)Fons Olterdissen (中段に)1865 (中央部に星の図柄) 1923 (下段に)1961」の文字やマークがありました。

 これを上野流で解釈すると、「フォンス(アルフォンス)・Olterdissenは、1865年生まれで1923年死去。(この銅像の建立は)1961年」だろうと考えました。さらにホームページなどで調べて見ますと、このアルフォンスは、マーストリヒト生まれの作家、詩人、作曲家のようで、しかもマーストリヒトの歌まで作った人でした。

 上野調べですから正確さはないものの、ここまで来ると、「あー、あの銅像はやはりマーストリヒトに功績があったから建てられたのだなあ」と、自分なりには納得しました。

 また、写真やビデオで、これらの銅像を改めて見てみると、写実的でもあり、4人の構図や姿形も、なかなか考えれられた造りとも思いました。これらの銅像の反対側には、教室か講堂みたいな所で一見、先生が大勢の人に教えているようにも見えましたが、何か「教室で勉強中」とは違う感じもしました。逆に、何かの宴会・祝宴みたいにも見えます。(写真4を参照)

  先生らしき人は、左端に座っていましたが、他は座った7名を除き、あとは立ち姿で全員大人のようです。さらに良く見ると中央部に夫婦みたいな男女がいて、その周囲の立った人は両手を広げたり、ダンスしたりしてしています。また、座った人は笛や太鼓など楽器らしきものを持ったりしています。もしかしたら、先の私の想像=「教室で勉強中」は間違いで、例えば「結婚式か、何かの祝宴を表現しているのが正しいのでは」とも思い直しました。

 このレリーフ板には説明書きがなかったようで、さらに想像を重ねると先のアルフォンスの銅像と関係があり、この人の作曲した歌あるいは何かの作品をモチーフにしたものかなあとも思いましたが、これ以上は考えつきませんでした。

 先の銅像やレリーフ板のあったデ・ボスウト広場周辺から南側へ進むと、両側とも大学の校舎みたいな建物に囲まれた道がありました。私達は、次の目的地に目指して、この通りをゆっくり歩きました。

(掲載日:2014年11月24日)
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(旅行メモ)
2013年12月25日(オランダ時間)
     マーストリヒト市内観光(15)

11時40分、城壁周囲の堀、城壁の門、城壁の通り
11時50分、ビショップス・モレン(司教の水車)
12時00分、マーストリヒト最古の城壁と通り
12時05分、マーストリヒ大学周辺にあったアルフォンスの銅像
12時08分、
マーストリヒ大学校舎横の道
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