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(このページは、主に1986年2月14日のことを書いています)

雨の旅立ち
 あいにく雨の旅立ちになった。私は旅行準備で朝から慌ただしかった。「パスポートは、お金は、カードは、下着は、..」と何度もチェックしながら、バックや背広に入れるものを数えていると、あっと言う間にお昼になった。14時過ぎに他人の結婚式にしか着たことのない、ダブルのスーツジャケットを着て手には中型のサムソナイトのバッグと8ミリビデオカメラ入りの皮のバッグを両手に持ち、阪急石橋の駅から大阪空港へ向かう。

 空港の銀行で始めてドルの両替とトラベラーズチェック(旅行用小切手)の手続きを行なう。何せ初回なので何回も聞き、銀行員も丁寧に応対してくれた。時間が少しあるのでターミナルビルから総合ビルの会議室へ行った。4階の会議室へ行くと丁度会議の最中で、私のスーツ姿を見て「まー様になっているなー」「旗をもって皆で見送りに行くから..」など言い、私を冷やかす。長期間留守にすることと、その間迷惑かかることなどを詫びながら退席する。また、万が一何かあればと思いしっかり者のNさんに手紙を託した。

1986年当時の航空券(AF273大阪→成田→パリ)
人の暖かさ
 国際線の手続きを知らないのでTさんと、Aさんに一緒に出発カウンターについて来てもらう。さすがにふたりとも自分達の国際線の職場で手慣れたもの。さっさと、チェックインが終了し、エアーフランス273便(AF273)の15A席の搭乗券を最後にもらう。

 エアーフランスのハンドリングをしている関係上、このふたりの計らいで手荷物だけはファーストクラス(プリミエール)のタグを付けてもらい、おかげでパリについた時手荷物が一番早くターンテーブルを流れて来た。

 出発まで約1時間近くあるため国際線の喫茶店で3人でお茶を飲んでいるとKさん、Yさんは始め多くの人が見送りに来てくれた。雨の中来てくれたことについて、私は皆に感謝した。一通り話し終えるころに17時になり、出発案内表示板の前で写真1枚撮り「気をつけて」と言う声に見送られながら、税関の手続きに向かう。

 出発前にハガキ位の大きさの通関用カードを書かずにそのまま税関のところに行ったところ、そこで指摘され、また、デスクのところまで逆戻りした。最初からチョンボ、アーアー。見本を見ながらカードを書き、今度は何も言われずに通過。すぐそばに、免税売店があった。時計、香水、バック、ネクタイ・・・など色々あるものだ。大阪空港に働き出してから14年間始めてこのような売店を見た。

 6番ゲートに向かい歩いていたところ、スキー仲間のNさんに会う。今日ボーデングブリッジ担当であった。また、ゲートの所には旅客案内担当のIさん(キャセイ航空)に出会う。直接仕事では一緒になることはないが会議などで同席したことはあった。「最初の海外旅行で不安なんです」と私が言うと、「大丈夫ですよ」と励まされたり、東京出発のふたりと別々の席になるところを急遽成田の方へ連絡してくださって、3人一緒の席にして頂いた。

 18時15分機内へ行く。フランス人のスチュワーデスさんに笑顔で迎えてもらう。日本の航空会社以外の客室内を見るのは始めてで、特にキャビンの各所にギャレイやトイレの設備が多くあり、「ああ、やはり国際線仕様だなあ〜」(当り前のことだが)と思った。

 でも、毎日見慣れている全日空機のボーイング747と大きく変わるものでなく、ついつい仕事柄シート、ウィンドー、ライト、オ−デイオなど見てしまう。 機内アナウンスが最初フランス語であった。独特の尻上りのアクセントでさっぱりわからなかった。どこか、東北弁に似た感じもする。

 ただ、「オサカ」とか「ナリタ」に近い発言があったので「飛ぶルートのことを言っているのだな〜」と一人で勝手に判断していたところ、あとで、英語と日本語のアナウンスがあった。座席では手帳と電卓を何回もポケットから出したり、入れたりしていた。18時25分ランプアウト、ブリッジの先端にいるIさんとN君の見送りを受け、こちらも窓に顔を押し付け人の暖かさを感じつつ手を振った。

機内で頂いた絵葉書(ボーイング747機)
心配せんでよかけんね
 18時35分テイクオフ、空港と伊丹市の夜景がぐんぐんと遠くなっていった。しばらくすると水平飛行に入り、飲み物、サンドウイッチが配られ、食べながら3空港の資料を見ている内に成田の夜景が近ずき、19時23分着陸した。44番スポットに入るまで約11分かかった。混雑しているのか、大きい空港なのか、夜だったのでわからなかった。

 ブリッジが装着され、成田交代のクルーに「ありがとう」と言い、ゲートの行くと『TRANSIT』と書かれたプレートを渡された。成田出発まで約2時間あるのでロビーやトイレをうろうろし、それに飽きたら、ビールを飲み、成田合流のふたりを待っていた。なかなか、ふたりがこないので「こなかったら、どうしよう?」と言う言葉もふっと出てしまった。

 気晴らしに心配症の田舎の父母に電話し、「何も、心配せんでよかけんね。10日間行ってくけんね」と。自分で思っていることと電話で話していることが全然違っていておかしかった。こんなことを強がりと言うのだろう。 再び、ゲートに行くと松尾さんと(通訳担当の)小林さんがニコニコ顔で迎えてくれた。「あ〜あ、良かった」少し雑談していたら、22時30分に案内が始まり、3人は大阪でIさんが席押さえして頂いた通り、15ABCのシートに座った。

 大阪発、成田発、それぞれのエピソードを話していたら、21時18分AF273便はテイクオフし、アンカレッジ空港に向かった。機内では3人で調査の打ち合わせや自分たちの田舎の話をしている内に松尾さんの出身が私の田舎と同じ長崎県の早枝とわかった。

 「西海橋と同じように早枝には小さな瀬戸があっとですよね」「私んとこの大村はなんもなかとが、良か所ですけんね」など急に長崎弁になった。飲み物サービスのウイスキーも手伝い、話しは弾み00時10分夕食を食べた。私は好き嫌いはあまりないがどちらかと言うと和食党の私としては洋食の第1歩であった。しかし、鮭、生ハム、マッシュポテト、サラダなど、なかなかいけた。話しはつきないが明日のことも考え少し寝ることにする。

凍てつく氷の大地
 03時、アラスカの大地を見た。一面、雪、氷、そして所々に灰色の土。凍てつく氷の大地とはこんなことを言うのか。幾重にも曲がったような川らしきもの、真っ白くてまるい湖のようなもの、真直何百キロメートルも伸びている道路みたいなもの、こんなところが本当にあるんだなあと思った。

 しばらくすると朝日が一面を照らし山、川、大地のシルエットがはっきりとわかる。同時に着陸体制に入る。 海の近く流氷があり、灰色と言うより、鉛色の表現がぴったりくる感じで、陸続きで一面にある。海岸近くには小さな飛行場らしきものも見えた。

 「アンカレッジは海の近くにあるんですか?」とアホな質問をすると、小林さんが「アンカレッジのアンカは船のアンカー(錨)のことですよ。もちろん、海の近くですよ」と教えて頂いた。

 03時40分AF273便はアンカレッシ゛空港に着陸した。ここの空港は広大だ。ノンストップでタキシーウェィしても約10分かかった。所々に映画やテレビで見た第2次大戦中、使用されていたような双発プロペラ機とか、グレー塗装ジェット機、何十機置いてあるのかわからないような小型機。もしも、飛行機マニアがいればこの空港にいるだけで面白いのではないかと思う。外気温はマイナス14度と言う。N5スポットで働いている従業員の皆さん、本当に御苦労さま。

1986年当時の北極経由便(パンフレットより)
円高はここにも
 アンカレッジ交代のクルーに「さよなら、サンキュー」と言い、トランジットのプレートをもらいターミナルビル内に入る。ここのターミナルは私達の前に1〜2便先に日本から来たのか、逆にこれから日本に帰るのか、それにしても日本人が多い。英語の案内板がなけれは゛ここは日本の空港かと思うほど。

 店員の人も「いらしゃい。今予約しておくと10%引きで帰り安いよ」と日本語で。円とドルのレートを聞くとさすがに円高。日本を立ってまだ10時間も立っていないのに(日付け変更線の関係で)昨日のレートより2円くらい円高だった。でも、日本人か、日系人の店員が「円高になればまた日本が遠くなる」と言っていたことが耳に残った。

 各ゲートのあいているところには熊やトナカイなどの剥製が置いてあり、これは生きているようで迫力があった。また、のれんの下がった”うどん屋”さんがあるのにはここがアメリカであることを実感として忘れさすものであった。

純白のマッキンリー
 04時40分、機内案内があった。54分にランプアウトしたが、ランプもタキシーウェィも凍っているのかなかなか動かずツルツル滑るような感じも一時あった。12分後にテイクオフし、05時20分にマッキンリー山(6187b)が見えた。さすがに北米の雄峰、どっしりと貫禄があった。

 まだ、飛行機の高度が高くないのかフライトレベルと変わらないような気がした。山の中腹から裾野の方に青白い氷河が見えた。透きとおっているようだ。この山が私も『冒険』『エベレストを越えて』など2〜3冊本では読んだことのある冒険家の植村直巳氏の永遠の地かと思うと感慨深かった。

 この人は「冒険とは生きて帰ること」と常に言い、本に書きエベレスト、キリマンジェロ、モンブラン、アコンカグァ,マッキンリーの5大陸最高峰の登頂、アマゾン、グリーンランド、北極海の単独走破などを行ない、次は南極大陸と言う矢先に不幸にあわれた。しかし、このマッキンリーは偉大な冒険家の無念さを全く感じさせないような静かで、大きな山だった。

可愛いパリジャンヌ
 05時30分、朝食サービスが始まった。洋食は2度めだがマッキンリー山やアラスカの大地を見ながら朝食をほうばるのは気分最高だ。ジュース、クロワッサン、クレープ、ジャムなどとても田舎や大阪で日頃食べているような朝飯ではないがスイッスイッと口の中にはいっていく。

 3人の話しも弾む。それにこのゾーンの担当のスチュワーデスの方が今までで一番可愛い、笑顔の素敵なパリジャンヌのパスカルさんだったのでなお良かった。お互いに自己紹介し、こちらの方は日本の航空従事者であることを伝えたところ色々話しも弾み、サービスも良かった。

 早速調査活動を始め「クルーは何名ですか?」と。答え「全員で15名、女性8名、男性7名に日本人は今日は2名、普通は3名です」と。 このAF273便以外にこの調査期間中エアーフランス3回、アリタリア航空1回乗ったがこんなに愛想の良いクルーの人はいなかった。あ〜ちょっとでもフランス語がしゃべれたら、また、万が一でも機会があればお会いしたいものだと後で思った。

 パリに着く直前の朝食サービスの時に記念に私の手帳へサインして頂いた。 自然の大運河  06時15分、アラスカの大地から所どころに裂け目のある北極海の氷が見えてきた。氷はアラスカ以上に厚いような感じがした。氷自体は白色なのに天気の関係もあるのかグレーに見えた。

 裂け目の海はまるで自然の大運河のようだ。多くの冒険家がこのような裂け目を避けながら北極点を目指して行ったのだろうか。この氷と運河は何キロ続いているのだろうか? 同じような風景ばかりだ。さすがに眠くなってきた。「今寝ておかないと明日が大変だよ」と小林さんから言われ冷たいウインドウを気にしながら毛布を深くかぶった。 (以上、日本時間)

(旅行記原稿作成日:1988年9月1日、ホームページ掲載日:2005年5月10日)

<旅行記の補足>
 1986年2月当時ヨーロッパに行くには、まだまだ(シベリア上空通過の)ヨーロッパ直行便は少なくて、アンカレッジ経由(北極海経由便)が多かったです。約1時間かかって燃料補給、機内清掃や飲食の補給などをしていたようです。その間私達はトランジット(通過)客ですので、空港内の出発ゲートあたりをウロウロしていました。

 いくらトランジットのみとはいえ、アラスカ(アメリカ)の大地を1回踏んだことには変わりなく、印象深く覚えています。ただ、成田空港から大体6時間半かかり、「もうここで飛行機は、終わりにしてくれ。ヨーロッパまで行くのは勘弁して」と言う気分になったのも、正直なところでした。

 今は、ヨーロッパ直行便ばかりで便利になりました。まあでも、飛行機疲れも味わいながらですが、アラスカの大地、マッキンリー山、北極海なども直接この目で見れたのは、今となっては貴重な経験でした。(補足分の原稿作成及びホームページ掲載日:2005年5月11日)

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