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(このページは、主に1986年2月15日のことを書いています)

翼よ、あれがパリの灯だ
  2月15日04時45分、朝食サービスが始まった。まだ、外は真っ暗だ。05時30分点々と電灯が見えてきた。1927年『スプリット・オブ・セントルイス号』に乗り、大西洋横断を始めて行なったリンドバーグと同じような気分で「翼よあれがパリの灯だ」と言いながら、3人で話し合った。

1986年当時のCDG空港ターミナル2(AFパンフレットより)
 徐々に高度を下げているようだが少しウエイテイングしているようて゛、遠くに他機のアンチコリジョンライト(衝撃防止灯)が見えた。6時30分に着陸した。特に、混雑もなく滑走路からランプまで走行したがそれでも約8分間ランプインまでかかった。本当に大きい空港何だろうな〜と思った。

 背広、バッグなど見繕いをし、席をたつ。 降りる際、L1ドアーが空いていたがL2ドアーにスチュワーデスのパスカルさんがいたので「サンキュー、さよなら」と、わざわざ言いに行った。「メルシー、オヴォワール」(ありがとう、さよなら)の返事があった。

ベンツのタクシー
  06時40分、通関手続き。入国カードとパスポートを見せるだけで以外と簡単だった。その後約10分後手荷物を受け、カート車に乗せ出口に向かった。もしも、フランスの方が迎えに来てらっしゃっるのではと思い、3人ともウロウロ、キョロキョロしていたがそんなことはなかった。07時10分すぐ近くの両替所で8万円を2936フラン(1フラン=27.3円)に変えた。フランのお札は財布から1〜2pはみだす大きさだ。

 その後エアーフランスの発券カウンターでパリ→ローマ→ロンドン→パリの航空券3人分を購入しに行った。コンピューター処理の発券方法だがなかなか時間がかかった。 空港からタクシーでホテルまで行った。タクシーは日本では高級外車のベンツである。高速道路をバンバン飛ばし、約120q位出ていてもベンツはびくともしなかった。

 道路際には日本の会社名の入っている看板も見え、日本企業の進出を直に感じた。約30分間走り、オペラ座→ラファイエット・デパートなどの古い町並みを経てタクシーが止まった。チップを払ったのはこれが最初であった。

質素なホテル
  08時35分頃に、3日間の宿泊先である『HOTEL EXCELSIOR OPERA』(ホテル・エクセルシオール・オペラ)に入る。まだ、早朝のため部屋が空いてなく、ロビーで待たされた。今から出て行くために会計で支払いをしている人、タクシーを待っている人などしゃべっているが、チンプン、カンプン。それでもここが日本以外で泊まる初めての所かと思うとわくわくした。

 カウンター横の壁にパリ市内の地図があり、空港からここまで来たのを指で示しながら確認した。しばらくしたら、部屋も空き各3部屋に別れ、手荷物を置きに行った。部屋の中は無駄な作りがなく必要な物だけが設置されていた。カーペットやベッドは、えんじ色で壁は薄いアイボリーと、全体的に落ち着いていた。各階、各部屋で清掃やベッドメイキングしていた人達は今まで見たフランス人とはちょっと違う人のようだった。ホテルは3星クラスであるが派手さのない、機能本位の質素なホテルだった。

オペラ座(オペラ・ガルニエ)
青銅色のドーム
 3人は時差調整(眠たいのだが、夜まで起きておく必要がある)のため、市内見学に出た。ホテルを出て少し行くと、スポーツ用品の専門店があった。良く見るとロシニョールのスキー、ラコステのスポーツウェァーなどなど種類が多くあった。

 道路をはさんで次の通りにはパリで一番大きいデパートである『ギャルリー・ラファイエット』があった。 そこから、また通り一つ先に進むと世界5大歌劇場の一つと言われるパリ、オペラ座があった。建物は薄い青銅色のドーム、グレー色の柱と壁で長い歴史を感ずるものであった。

 正面入口と思っていたらそこは補助用の横の入口でそこからしばらく歩くと左右の幅が、約120bある正面出入口があった。良く見ると列柱や壁には彫刻が至る所に施されていた。高さも高くドームのてっぺんは正面口の広場をかなり歩き、地下鉄の出入り口から見上げてやっと見えた。ここで3人で始めて写真撮影した。

  そのうち中年の日本人女性から「ここはオペラ座の前ですよね」と声かけられた。「そうですよ」と答えると、「バスが来ないんですよね。規定通り、回っていたにもかかわらず、市内観光用のバスがいないんですよ。困った」と言われた。それでも写真を撮ってあげると「なんとかします」と言って、お互いに別れた。女性ひとり大変だなあと思いつつ、こちらは通訳付きの男3人、素人の私でも心強かった。

カフェとデコボコの車
 オペラ座の通りを一つ渡ると、ガイドブックにも出ている『カフェ・ド・ラ・ペ』に行った。しかし、時間が早いためかまだ開いていなかった。それでその真向かいのカフェに入った。ドアーの調子が悪いのかギーと音がし、驚いた。中に入ると、まだクリーニング中で、作業している人は黒人だった。道路際に席を取り、各人コーヒー、クロワッサンなど頼んだ。

 前の通りをぼんやりながめると、朝のラッシュか、車がひっきりなしに通る。ラッシュと言っても大阪市内と違って車が渋滞するのではなく、動きも早いものだ。さすがにルノー、プジョーの車が多いが何十台かに1台位日本車もあった。今は懐かしい車種や前も後ろもデコボコと言う車も珍しくなかった。日本では自家用車と言えば一財産で、どれもピカピカであるがこのフランスでは実用オンリーなのだろうか?車に強い松尾さんに色々解説してもらった。

 カフェオーレをすすりながら今日1日の打ち合わせを行なった。また、フランスのカフェについても色々通訳の方に教えて頂いた。トランプもできるし、夏のシーズンにはテーブルを外にだし、ゆっくりゆっくり飲みながらしゃべるとのこと。今は真冬のため外でカフェを飲むような人はいなかった。

寒い
 オペラ座の通りから、凱旋門まで歩いても大したことがないと言うことで歩き出す。左の通りにはバックで有名なランセルや日本のカメラメーカーなどの看板が見えた。そこから、右奥の遠くに塔が見える。聞くと、ナポレオンの像である。そこの回りにはヴァンドーム広場である。もう少し歩くと、パリ三越、アイリス眼鏡の店などが見え、向かいの通りには英国航空、アエロフロート航空などのエアーラインの支店が見えた。

 ここまで来るとカフェで暖まっていた体が冷えてきて、さすがにスーツ姿だけでは寒い。それで他のふたりに無理言って、「ホテルに帰り、ベストとジャンパーを着たい」と。やはり、やせがまん(私の場合は太りがまんかな)はするものでない。ふたりにすまないと思いながら、また、来た道を帰り、ホテルにつき着替える。ネクタイもついでにきつめに締めた。これで大丈夫。

蜘蛛の巣のような地下鉄
 行ったり、帰ったりで少し疲れが出て来たので今度は地下鉄(メトロ:METORO)で行くことにした。ホテル近くのショセダンタン駅に行く。中に下って行くと商店の宣伝かどうか知らないがビラまきしていた。また、古いのは仕方ないとしても、フロアーに切符や紙くずが散乱しているのには驚いた。

 御堂筋の地下鉄がパリにあるなら、常時清掃終了後と言える。 券売機の横に全地下鉄の路線図があった。まあ〜、縦横無尽蜘蛛の巣のような路線である。自分の行きたい所を路線図の下にあるボタンを押すとポッポッと豆電球で線路が表示される。シャルルドゴール・エトワール駅まで切符を買う。

 自動改札機は背丈より高い、観音開き式のドアーで切符を入れると一瞬、間がありシュワッと音がして(ハイドロ式か?エアー式か?)開いた。ホーム内には映画のポスター、レンタルビデオなどのコマーシャル、地図などがあり、あまりごてごてとした掲示物はなく、薄茶色の壁であった。電車の中はフランス人の体が大きい割には小さく、座席もマイクロバス並で線路の幅も狭かった。特にドアー付近にある壁に埋め込まれているシートは丁度YS11のアテンダントシートのようにバタンバタンと上下する跳ね上げ式で小さかった。

 しばらくすると、エトワル駅に着いた。降りる時は自分でドアーのノブを回し、オープンする方式であった。出る時は駅員もいず、ステンレスかアルミのドアーをあけようとしたがなかなか開かない。変わってもらって、ドーンと押すと開いた。何事にも根性込めてやらなければならない。どこの駅も出口には黄色の切符が散らかっているが、黒灰色のフロアーの上だから銀杏の葉のようにも見えた。

凱旋門
ワアー、大きい
 地上に上がると凱旋門が目に飛び込んで来た。「ワアー大きいなあ、こんなに高いんですか!」と思わず口に出た。凱旋門の外周は道路でシャンゼリゼ、イエナ、ビクトルユーゴー、グレペール、ワグラム、グラングルメなどの大通りが放射線状に集合している。

 一つの通りから来た車は別の通りに行くのに外周を回るため車も多い。別に信号機やお巡りさんもいないのに、あわや接触するのではないかと、ハラハラ見ていると、次にグルグル進んだり、止まったりしながら器用に外周を出て行く。3人とも「よう、これで事故が起こりませんね」と言い合った。

 車の流れを見定めて凱旋門下(エトワル広場)に入っていく。ほっとして歩くと真ん中に無名戦士の灯があった。丸い花輪が置いてあり、黙礼してエレベーターの切符売り場に行く。口をぽかんと開け、門全体を見上げると彫刻、数字、人名などびっしり刻まれていた。

世界最大の凱旋門
 凱旋門のエレベーター前には20〜30人並んで待っていて、その中には日本人が多かった。エレベーターの中にはオペレーターがいて形式は大変古く、オープン・クローズも、上下動もゆっくりであった。屋上へは細い階段をさらに登り、何か屋根裏部屋へ行く感じだった。上がるとそこは見晴らしがよく、天気さえよければパリ全体が見えると思った。

 あいにく冬の曇り空で遠くは見えず、所々にぽつんぽつんと高層ビル(ほとんどがホテルか?)が見えた。それ以外の高いビルはほとんどなく高さも統一されているような町並みであった。一通り、各方面から見ると、かすんでエッフェル塔、モンマルトルの丘などが見えた。

ガイドらしき人がいたので凱旋門について質問した。「1806年から1836年、ナポレオンの偉業を称賛し、ハイフィリップスによって建築された。高さが約50m、幅が約45mで世界最大の凱旋門である」と答えられた。出口の方へ向い、再び細い階段を下るとそこにはフロアーがあり、凱旋門の建築の歴史、パレードの写真、フランス国旗、古切手売り場などあった。

 友人からたのまれていた切手を17フランを出して買った。私にとって始めての外国での買い物であった。「あの切手を・・17フランですか?」と言いながら身振り手ぶりも交じえて、買った。自分一人で買えたため、少し自信を持った。薄暗いフロアーを一周し、奥の隅にいくとそこはエレベーターの乗降口であった。待っている中にアメリカ人の一団と思える人たちがいたがそこだけは明るい感じがした。エレベーターを降りてシャンゼリゼ通りに面したところで記念撮影したが、大きいため門の一部しかファインダーに入らなかった。

シャンゼリゼの真ん中で
シャンゼリゼ大通り
 連絡用の地下通路をこつこつと靴音響かせながら歩き、階段を登ると近くに車のプジョーショールームがあった。しばらく歩くと、人の高さと、バックの凱旋門が丁度良い位置に来たのでカメラを取り出す。道路の端ばかりでは面白くないので、勇気を出してシャンゼリゼ通りの真ん中で、車の行き来を気にしながら、2〜3枚さっさっと撮った。梅田のど真ん中ではとてもこんなことはできない芸当である。

 反対側の歩道を歩くと近くにエアーフランスの支店があった。外から見ればそんなにハデさはなかったが内部はデラックスだった。右奥には電光掲示板や電球で世界地図描れ、輪郭だけが浮き上がった感じだった。

 シャンゼリゼ通りを、コンコルド広場へ向かっていくと両端にはゲラン、ロレックスなど有名ブランド品の店が並んでいた。どこの店も古いビルで外観は質素であっても中の品物はデザイン、色、柄には目を見張るものがあった。何回か、ネクタイ、スーツ、皮ジャンパー、ベストを見た。手ざわりもいいようだ。何も買わずに、地下鉄の駅へ向かった。

中華丼を始めてパリで食べた男
 フランクリン・ルーズベルト駅からパレロワイヤル駅へ行った。着いてからぶらぶら歩いていると日本人の一団が多くなった。そこには見慣れた日本語で『ラーメン亭』と書いてあった。「たまには日本食でも食べよう」と言うことで中に入った。店は割合広く、壁をぐるっと見渡すと、日本の映画、テレビのスターや有名人のサイン入りの色紙が所狭しと貼ってあった。NHK朝の連続テレビ小説『澪つくし』のヒロイン沢口靖子ちゃんの真新しい字もあり、あ〜あここにも来たのだなあと思った。

 二人はラーメンを注文、私は丁度サンプル用に写真を撮っていた中華丼を頼んだ。聞けば「この店で始めて作った中華丼で新メニューです」とのことであった。味はやはり大阪並とはいかなかった。支払いの時に「本当は43フランだが、あなたは始めて食べてもらったので3フランおまけしておきます」と言った。外の通りに出ると二人から「上野君はパリで始めて中華丼を食べた男」と冷やかされた。

 近くには日本人専用とも思える店『山本屋』があった。バッグ、コート、時計、香水、ネクタイ、アクセサリー、小物などおよそお土産になるような品物が所狭しと並んでいた。当然、店員もお客も日本人。どの品物を見て回っても「これは他の店より安いから、日本人から喜ばれていますよ」と言われ続けたので、「あー、そうですか」と応えた。

お札を間違えて
 オペラ通りを歩いて、今度は紳士服の店を物色した。私は日本では今までそう寒さにこたえなかったこともあり、コートは持っていなかった。こちらに来て寒いこともあり、日本でも一つでも持っていればと思い、買うことにした。『ERCIBI』と言う名の店の地下にバーバリー、アクアスキュータム等のコートや背広がたくさん置いてあった。

 私の体形上日本では格好や柄は優先して決められないがここにはいくらでもピッタリするものがあった。バーバリーのコートに手頃な物があったので何着か袖を通す。小林さんが「コートにカシミヤのマフラーをおまけに付けて」と粘る。なかなか、うんとは言わない。良く値段表を見るとマフラーと言ってもコート1着分に近い。これではだめだとあきらめて、結局、バーバリーのコート(1365フラン=約37000円)のみで手を打った。

 地下から1階にある会計の所に行った。ここで、また、失敗。200フランのお札7枚出せば済むところを20フラン札と感違いして、10枚〜15枚出してそれでも「足りないなー」と一人で騒いでいたら、小林さんから「上野君それは200フラン札でこれだけ出せばいいよ」と言われた。

 日本では買い物をしても計算ができなければお客の出したお札を店員が手元に引き過不足を計算して後でお金は返してくれるが、ここの店員は全然お金には触れなかった。小林さんにそのことを聞けば「たとえ、いずれ店に支払われるお金であっても客の手元にあるお金は客のものであり、手を付けることはない」と言うことであった。

パリの焼き栗屋さん
焼き栗とバーゲンセール
 オペラ座の前に再びもどって来た。四つ角に香ばしい香りがしていた。日本の丁度石焼き芋やさんのような焼き栗屋さんだった。私が良く食べる中国の天津栗と違って大きな釜で焼くため、皮が焦げ、割れていた。小林さんが買ってくれ、「天津栗の様に甘くはないですが、まあまあうまいですね」と言いながら、道々食べながら歩いた。

 ホテルまで歩く道すがら、各店のウインドウに”SALD”(大売り出し)の赤いシールの貼ってあるのが目についた。今の時期は日本でも同じで冬物のバーゲンセールの時期だと言う。ローマ、ロンドンの活動が終了すればまたパリにもどって来るので今のうちスーツかブレザーの予備調査のため2〜3店位の店に入り物色した。

 どの店も円高の影響もあり、比較的に安い。背広の色柄も良いが、特に私にとって気に入ったのが、大きなサイズも豊富であると言うことであった。店員のセールスも「なかなか似合いますよ」と言葉は通じないにもかかわらず、熱心に説得する。「1週間後また来て買いますからね」と言いながらほうほうの体で店を出た。

 14時前にホテルに着いた。さすがにちょっと疲れてきた。松尾さんが日本から持ってきたバー式の湯沸かし器でお湯を沸かし、お茶を飲む。やはり、落ち着く。ベッドに寝転がって、朝歩いた所、これから行く所などしゃべった。

生活用品豊富な百貨店
 1時間後、本当に眠たいのだが、我慢してまた出かける。ホテルから歩いて2分位の所にパリ最大のデパート『ギャルリー・ラファイエット』があった。しばらく、1〜4階まで、ぐるぐる見てまわる。電機製品の所はこじんまりとした中で日本企業のSONY, HITACHI,PANASONIC,SHARPなどの製品が圧倒している。少しだけだが、PHILIPSなどがあった。

 3階の大きなフロアーのほぼ全体と言える位ベッドや寝装具品が置いてあった。種類も数も多く、電機製品の少なさと対象的であった。考えれば人生の1/3は寝ることだし、寝装具品などの日用品を大事にしている国民性かなと、独り合点した。

 1階にはさすがフランスと思わせるように化粧品が多かった。フランス語がチンプンカンプンの私でもGUERALAIN(ゲラン)、CHANEL(シャネル)、CHRI−STAN・DIOR(クリスチャン・デォール)など読めた。日頃、無粋な野郎には慣れない香りで、頭がクラクラしそうだった。

 近くにはハンドバック、旅行鞄が、これまた、ルイヴィトン、ランセルなどのブランド品がたくさん置いてあった。ここで、友人の奥さん用にピエールカルダンのセカンドバック(450フラン)とついでにマフラー3本を買った。ここも売り手と会計が違う人だった。日本のデパートのように応対してくれた店員がその場で直ぐ総べての精算をしてくれるのと違って、遠くまで行ったり来たりで、本当にじゃまくさい。バッグははじめてカードで支払い、マフラーは身振り手ぶりで現金で払った。 互いに買った物を一旦ホテルに置きに帰った。

薄緑色のリンゴ
 「今度はモンマルトルの丘に行こう!」ということで、また、地下鉄のショセ・ダンタン駅から、ピガール駅に着いた。ピガールはあのフレンチカンカン発祥の地で有名な『ムーランルージュ』がある所で、キャバレー、バー、映画館などが多く、パリの歓楽街であった。色々な客引きも多い。

 この歓楽街から一歩外れれば静かでなだらかな坂道があった。道路脇には果物屋さんがあった。珍しいので薄緑色のリンゴを3個16フラン(約430円)で買い、「すこし高いなー」と言いながら頬張る。味はあっさりした感じで赤いリンゴとそう変わるものではないが、むしゃむしゃ食べながら石畳みの坂道を上がるのも、また、格別であった。階段が、急になり、振り向けばパリ市街がかなりの角度で見えてきた。

サクレクール寺院
無名画家の広場
 さらにガブリエル通りを歩き、一気に階段を登るとそこは無名画家のたまり場であるテルトル広場があった。ここには数多くの絵が並べられてたり、観光客相手に似顔絵を書いたりと、にぎやかであった。 良く見ると、油絵や水彩画ばかりでなく、私に知らない表面上がつるっとした感じの絵もあった。しばらく3人でうろうろと見てまわり、しゃべる。

 「ここは画家の卵の集まる広場と言われてますよね?」「でも、食いはぐれた人が多いんじゃないのかな?」「本物の画家はこんな所でなくもっと真面目に何かを描いているよ」など、勝手に想像した。

 日本人の絵描きもいたので少し話しをする。身引きかかもしれないが他の人よりも絵も丁寧で、カメラで撮ったような観光写真風でなく、芸術的であった。「あの日本人は真面目にやっているよ」と言うことで3人の意見は一致した。

白亜の大聖堂とユトリロ風の階段
 ゆっくりテルトル広場を振り返りながら、モンマルトルの中心、サクレクール寺院へ向かった。通りがかりにサン・ピエール教会が左に見え、しばらく行くとウィレッド広場が階段状にあった。芝生や植え込みがきれいで、真ん中から見ると左右対象で何とも言えない。広場の上が『白亜の大聖堂』と別名呼ばれているサクレクール寺院である。

 冬の空の加減もあるのか、私には真っ白には見えなかった。それでも長崎で見慣れていた大浦天守堂や浦上天守堂とは形、色、大きさが総べて違う。スケールがでかい。奥行き100メートル、幅50メートル、ドームの高さ80メートルと言う。記念写真をとってから中に入った。

 丁度、夕方のミサの真っ最中であった。日本語の案内表もあったのでもらう。ろうそくのろうが一杯溜ったろうそく立ての横に何か書いてあった。その前に立ってしばらくミサを見ることにした。写真撮影は可能だが、「ストロボやフラッシュは禁止」と言う案内板もあった。

サクレクール寺院近くの階段
 荘厳なパイプ・オルガンの調べや抑揚のある司祭の話しが続く。ステンドグラスや聖母マリヤの像などもあった。2フランを箱に入れ「私をわかってくれる人が現われますように」と祈った。私の実家は仏教だがこの年齢まで来るとキリストも仏もない。八百よろずの神様、仏様である。

 外に出た。この寺院はかなりの登り下りのためかフェキュレール(ケーブルカー)があったが3人はそれに乗らず右の階段を降りて行った。古いふるい鉄の手すり、街燈、石段、それに木立。どこかで見たような風景である。「そうよ、ここがユトリロか゛描いた階段よ」と掛声がかかった。松尾さんがシャッターを響かせ、皆でポーズを決めた。

「押す」だけの名前のカフェ
 坂道をしばらく歩くと自動車道に出た。歩き疲れたので三つ角脇のカフェに入る。スペイン系の女店員がいて、白ワインを頼んだ。のどが乾いたためか、これがまた、うまい。しばし、「私は白ワインが好きですね。赤ワインは肉料理に合うと言いますが、あれは肉の酸性を赤ワインのアルカリで中和し、胃を疲れさせないと言いますよ」など、ワイン談義に花が咲いた。

 ひとしきり話しも終わり、薄いドアーを開け表に出た。「カフェの名前がないかなー」と思い振り返るとそれらしきものが全然ない。ドアーの所に『PUSSE(押す)』と書いてあったので、小林さんが「ここは『PUSSE(押す)』と言う名前にしておきましょう」と言われたので、皆で大いに笑った。

パリ発祥の地
 ピガール駅に向かい、ロミュシュアール大通りを歩いた。テーラーやブティック等あり、安そうだったので、立ち止まったり、ぶらぶらしたりで駅に向かった。ピガール駅からサン・ミシェッシェル駅へ行った。ここの上はパリ発祥の地で中心地のシテ島があった。ノートルダム寺院はもうとっぷりと日がくれ、ミサの最中であった。中をゆっくり見てまわり、ここでもコインを投げ入れ「いい人が表われますように」と祈った。

 「今日は2回もおさい銭を上げて、願掛けたので御利益(ごりやく)がありますよね?」「うん、うん、大いにあるよ!」など言いながら、また歩いた。近くにはもう閉店していたが花市場があり、冬なのにたくさんの花が窓越しに見えた。外気は寒いがここだけは花のパリの代表と思った。 シテ島をぐるっとまわると、そこにはコンシェルジェリの建物が見えて来た。この建物は最初王宮であったがフランス革命後、拘置所となり、マリーアントワネット、ダントン等が断頭台に行く前の日々を過ごしたところと言うことだった。

ヘーイ、サムライ、ドウゾ
 シテ島を離れて、カルチェラタン通りに向かった。「今日の夕食はアラブ料理」と決めていたので、カルチェラタンの裏通りへ行った。そこには寒いのにもかかわらず、入口の前に2〜3人呼び込みのために立っていた。小林さんに聞けば、そこは「『ハゲの女歌手』などを1957年からずっと同じ芝居をしている小さな劇場で日本で言えば新劇のようなもの」と教えて頂いた。

 通りはずっと同じような感じの店でガラス越しに海老、肉、玉葱、など串刺にしているのが多く見えた。ここも客引きが多く、私達が日本人とわかると「ヘーイ、サムライ、ドウゾ、ドウゾ!」とか言いながら誘っていた。どこの串刺の店も一緒と感じながら、「え〜い、ままよ」と思いながら、感じの良さそうな店に入った。

 店内にはギターの演奏をしていた。アンプやスピーカーが目につき、「YAMAHA」「AKAI」のシステムであった。注文を取りに来たので、串刺のようなものとワインなどを頼んだ。あとで小林さんが、「ここはアラブ料理と思って来たが、ギリシャ料理だった。まあ、アラブもギリシャ料理も似たようなものだがね」と説明して頂いた。なかなか、ボリュームのあるもので、なにかどうも油(オリーブ油?)が合わない感じがした。

 食べながらトリオのバンドに曲をリクエストすると気持ちよく弾いてくれた。会計で計算すると1人平均約450フラン(約4100円)の夕食になった。「ギリシャ料理にしては高いな〜」、「まあ〜最初の夜だし、いいか」言いながら店を出た。

パリ最古の教会
 かなり3人とも食べたので腹へらしに少し歩こうと言うことになった。全体は暗くて余り見えないがカフェだけは相変わらず、どこも明るかった。しばらくするとパリ最古の教会で有名なサン・ジェルマン・デ・プレ教会があった。夜なので良く見えないが、ゴシック建築風であった。

 時差ぼけと歩き疲れとでさすがに体が重くなってきた。口数も少なくなって、「そろそろ帰りましょうか?タクシーで」と言いながら近くのタクシー乗り場を探した。夜遅いので道もすいていてスピードも良く出た。オペラ座が見えたなあと思ったら、10時過ぎにホテルに着いた。

宛名の最後はJAPON
 部屋の鍵をあけようと思うが形式が違う(2重回し)のと古いため、いらいらしながら取っ手を回した。何事も辛抱と根性だと思いながら、1分以上ガチャガチャやるとあいた。ほっと溜息が出た。ゆっくり風呂に入り、あとで洗ったハンカチなどをむき出しのヒーターの上に干した。

 さっぱりしたので机の上で葉書を書いた。昼間凱旋門で買ったパリの観光絵葉書に田舎の父母、空港の友人など5人の顔を思い浮かべ、日本語で感想を書いた。宛名の最後には「JAPON」と記し、3.2フランの切手を貼って終わった。 テレビの画面は写るのが少なく4〜5チャンネルだった。番組の中で明日の天気予報しか分りようがなかったが、しばらく見た。さすがにどっと疲れが出てきて、ウトウトしてきた。質素だがクッションの良いベッドに腰が疲れないようにもう一つの枕を敷き寝た。 長い、ながーい2月15日だった。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年5月25日)

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