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ノミの市(ポルト・ド・クリニャンクール)
(このページは、主に1986年2月16日のことを書いています)

梅干しとクロワッサン
  冬のパリの朝はカーテンを開けても暗かった。どんよりとグレーの感じだ。7時半頃、枕元の電話がリンリンと鳴った。「何の電話だろう?しゃべれなかったら、どうしよう?」と思いながら2〜3回ベルを聞いてからおそるおそる受話器を取った。「上野君、おはよう。起きた?朝飯は8時頃行こう」と小林さんの声が聞こえた。「は〜い、いいですよ」と、ほっとした声で答えた。

 2回のレストランで3人揃い、注文が届くまで「ぐっすり寝れた」などの体の調子、昨日歩いた所や今日行く所の話が弾んだ。パン、クロワッサン、ジャム、それにあったかいコーヒーを飲みながら、食べながら、さらに話しは進んだ。

 また、私が日本から持ってきた梅干しをほおばり、「なかなか、合いますねー」と言いながら、窓の下の大通りを見た。もう9時になるのに人通りがまばらで、今日は日曜日であることを思い出した。

ノミの市、皮ジャン店前の松尾さん
どこまでもノミの市
  ノミの市に行くためにショセダンタン駅からパリの外れのポルト・ド・クリニャンクール駅に行った。途中、経由駅のシャトレに立ち寄った。この駅は以降10回以上来たので印象深くなった。

 シャトレ駅は、丁度地下鉄の十字路みたいな所で、いくつもの路線が集中しており、各路線の連絡通路も多くて長かった。ムービング・ウオークもあり、通路の交差している所には大道芸人が演奏していた。

 ノミの市で有名なポルト・ド・クリニャンクールの露店は駅の出口直後からどこまで続いているのか分らないくらい長くて、店が多かった。通りに面したテント張りの店、テントもない品物だけを置いている店など面白い位あった。

 どこでかっぱらってきたのか日本の旅館やホテル名の入った湯かたまであり、おおよそ世界中の物がここで揃うのではないか? ないのは”馬の角”位と思った。

 ここで松尾さんが皮ジャンパーを買うために10店位物色した。「これはいい作り、これは手触りが良い。あれはだめ」と。松尾さんは最後の方にはちょっとした『皮ジャンパーの権威者』になった。通りの真ん中には人だかりがあると思ったらそこには掛けトランプの真っ最中だった。

 フランス語だったが言ってることを2度3度聞くと大体感じがつかめ、面白かった。回りには日本と同じようにサクラもいると言うことであった。しばらくいると更に2重3重の輪が膨れ上がりにぎやかになったので、そこから私達は離れた。

ビデオがあればモテル
 日本から持って来たビデオを空港で使うためのトレーニングも兼ね、通りや店を写し出した。ところが予期せぬことに直ぐ人が集まって来てワイワイ言い出した。歩いているカップルも肩組ながら、ピースサインやポーズをとった。まだ、パリではビデオは珍しいのかちょっと”モテタ気分”になった。私だけでなく、蚤の市の感じを出すためゆっくり歩きながら3人でかわるがわる写した。

 クレープの作り方の実演があったのでカメラを向けると意識したのかひときわ大きい声で説明しはじめた。あまり食べたことがなかったので、21フラン(約570円)でクレープを買った。味は薄いパンのようだったが砂糖が多かった。テルトル広場で買えなかったのでここでお土産用の『凱旋門の絵』を240フラン(約6600円)で買った。自分用にと黒字に白でソルボンヌ大学のネーム入りのトレーナーを69フラン(約1900円)で買った。時間も12時をまわり「ルーブルに行きたい」と二人に頼んだ。

駅から美術館
 ヨーロッパに来る前、大阪のフランス料理のレストランに行った。そこのシェフは以前にフランス各地で食べ歩き旅行を行なった人だった。「フランスの中でもパリは特別だが、ルーブルは特に良い。パリの観光地は見なくてもルーブルだけは見た方がよい。圧倒される」と言っておられた。また、中学校や高校の時美術の教科書で見た絵や彫刻が見られるのではと言う期待もあったので早く行きたかった。

 クリニュアン・クール駅からシャトレ駅経由でルーブル駅に着いた。このルーブル駅は今までの他の駅と全然違っていた。ここだけは小綺麗で壁にはめ込まれている駅名プレートも他の駅が青地で白色であったが、ここは黒地に白色製で、通路や壁の所々に彫刻などが置いてあった。皆で「駅からルーブル美術館みたいですね」と言い合った。

パリ最大の建築物
 駅から離れ、古い建物の方へ砂利をザクザクと踏みしめて行くと、ルーブル美術館が段々大きく見えてきた。近寄ると本当に大きい。でも、「これはまだほんの一部分だ」とのことであった。たまたま、日曜日であったので入場料は無料であった。 説明によるとルーブル美術館はフランスの歴代の王により増・改築されたルーブル宮殿からできているとのことであった。

 3階だての四辺形の建物を三つと突き出たような長方形の建物からなっていた。廊下の長さだけでも総延長7qと言う長大なもので、パリ最大の建築物と言われている。この中には30万点以上の絵画や彫刻などの美術品、調度品などが展示してあるとのことであった。

 1年間の見学者は全世界から約300万人以上で、まさしく『フランスの誇り、世界の宝』そのもである。現在、『ナポレオンの中庭』と呼ばれる所が工事中でそこに新たに美術館を拡張するとのことであった。 この本当に大きいルーブル美術館を最初に見た結果、これが物差しになり、このあと少々大きいビルや建造物を見ても驚かないようになってしまった。外観をビデオで撮ろうと一番ワイドのレンズ位置にしてもファインダーの中に入らなかった。歩幅を広げ、中に入った。

ミロのビーナス
やっぱり、美人やなー
 中もどこから見て良いのか分からない位、大きかった。取り合えずエジプトやギリシャの展示品から見て行くことした。古代エジプトの象形文字、ミイラの棺、家具、調度品など数多く、ここだけでもゆっくり見れば1日はかかりそうだった。

 先を急ぎ階段の所に天使が翼を羽ばたいているような『サモトラケの勝利の女神像』が置いてあった。残念ながら頭部はなかったが台座含めて人の高さの2〜3倍はあるような大きさで、今でも飛び立ちそうで迫力があった。

 次ぎのフロアーに行くと今までより人だかりが多く、何かなと目を見やると遠うくからも『ミロのビーナス』の顔だと分かった。学校の教科書で何回も習い、世界的に有名な彫刻がそこにあるかと思うと勝手に足が急いだ。

 「わあー、やっぱり、美人やなあー」と言いながら近ずくと、世界の宝と言っても過言ではないこのビーナスがドーンと置いてあることには2度驚いた。台座においてあるだけだった。

 もしも、地震があれば倒れるのにと思った。パリは絶対地震が起きないのであろうか?芸術を大切にしている国民性か、はたまた、観客を信用しているのか警備もほとんどなかった。まわりにある案内板を見ると『ミロのビーナス』の「両手がもしも付いていればこうなるのではないか?」と言う説がいくつも描いてあった。

カフェの経営システム
 
歩き疲れと空腹のため一旦外に出ることにした。出口の近くにカルーゼルの凱旋門があった。ルーブル・コンコルド・ホテル近くのカフェで昼食を取ることにした。カフェの椅子はどこも小さく皆で体をすり寄せるように座った。日本の女子大生5〜6人、先には入っていて口数少なく食べていた。

 ここで、小林さんの方からはパリのカフェのオーナー、経営者、ウエイター、テーブルごとの売り上げのシステムなど教えて頂いた。日本と違って、おのおのが分業されていて、特に、ウエイターの働く権利(株みたいなもの)はテーブルごとに個人個人にあり、その権利(株)は売り渡すことも可能ということであった。

 ハムエッグみたいなもの、クロワッサン、ビール、ワインなどで昼食は1人62.5フラン(約1700円)であった。 店を出るとそこは五つ角の通りが集中しており、車の動きが頻繁で、ビデオカメラを取り出し、収めた。ここら付近はどこも古い建物が多かった。まわりの店は観光客相手のお土産店も多いが、さすがに美術館に関係するのか各種の絵、道具などの店も多かった。

小さなモナリザ
 今度はモナリザを見ることを主目的にルーブル美術館に入った。モナリザの回りには人が幾重にも取り囲んでいて、人気の高さが実感できた。ここまで来た以上絶対見てやるとのと゛根性で、厚かましくも人をかき分けかき分け一番前に行った。絵は以前はむき出しにしてあったそうだが、心ない人が傷つけたため今はガラスのケースに入れてあった。モナリザの絵は予想よりも小さかった。

 笑っているのかそうでないのか良く分からないあの独特な微笑みだけでなく、山や地平線も気になった。もう少しいたかったか゛写真を数枚撮り、ほかの人たちに譲る形で離れた。ルーブルの絵は数え上げたらきりがないが、学校の教科書の影響もあるのか、ダウ゛ィド作『ナポレオン1世の載冠式』やルーベンスの大きな絵が印象に残った。

 キリスト教のの関係で宗教色が多いのは仕方ないにしても、あれほど装飾されたキリストやマリアを見ると少々うんざりした。絵葉書の売り場で『ミロのビーナス』、『モナリザ』、『落ち穂ひろい』の葉書を5枚ずつ合計15枚を25フラン(約680円)で買った。

セーヌ川
パリの空の下セーヌは流る
 次はゴッホ、ゴーギャンの絵がある印象派美術館に行こうと言うことで、セーヌ河畔を歩き出した。ここの風景はエッフェル塔、ブルボン宮、最高裁判所、各美術館、コンコルド広場、川にかかる古い橋など遠近に様々なものが見え、ゆっくりゆっくりビデオをまわした。

 道にはマロニエの木立が続き、所々に本屋や焼き栗屋さんがあり、物思いにふけるように腰掛けている年老いた人、楽しそうなカップル、個性的な服を着て大股で歩く女性達、これが私が見たセーヌ河畔であった。セーヌ川もゆったり流れ、数艘の子舟が浮いていた。

 私は、この川を見るとどうしても、シャンソンの名曲『パリの空の下』(Sous le ciel de Paris)を思い出した。物心ついた時から田舎の長崎で毎週のようにテレビやラジオで聞いたことのあるアート・ギャラリーのバックミュージックであった。ただ、私はこれまでずっと間違ったまま曲名を覚えていて『パリの空の下』は最初「巴里の空の下セーヌは流れる」と思っていた。

 しかし、この名前は、映画の題名でこの曲はこの映画の主題曲だった。フランス語は分からなくても子供心に、哀調を帯びた、それでいて何か期待を持たせるようなシャンソンを自然に覚えていた。後日、小林さんに原語で歌ってもらった。

白人とのカメラ談義
 コンコルド広場のオベリスクが珍しかったので、ビデオをゆっくり上から下まで撮っているとフランス語で声かける人がいた。振り返ると中年位の白人の人であった。頼りになる二人は先に行ってしまって、私一人、あー困った。何言ってるのか分からない。何も起きなければ良いがととっさに思った。良く見ると人の良さそうな紳士で少し安心した。

 それでも英語でしゃべる時、顔がひきつった。 「あなたは東京から来たのか? あなたのビデオはSONYで良く知っている。私が東京に行った時、ビデオ、カメラ、電機製品を見たことがある。・・・」などを言われたのだろうと思った。身振り手ぶりで「このような角度で撮れば良いよ」と教えられた。私の顔も少しゆるみ、最後に「サンキュウ、グッドバイ」と言うと、「さよなら」と日本語で返事があった。

オランジユリ美術館、睡蓮の間(8枚連作の一部)
池の中にいるような気分
 次ぎの美術館の前で二人が待っていた。先程の一部始終を話し、中に入った。最初ここはてっきり印象派美術館と思っていたが後で、そこの隣のオランジユリ美術館であることが分かった。ルーブル美術館に比べ新しく、入口近くに2階へ続く階段が左右両端にあった。

 入館料4.5フラン(約120円)を払い、クロークでビデオを取り出し、鞄などを預けた。ここの担当のおばちゃん(マダムと言うのかな?)なかなか丁寧な人だった。 最初2階の方へ進んだ。

 ピカソの絵など掲示してあった。比較的明るかったのでうまく撮れていますようにと思いつつ、ビデオをまわした。1階に下ると左右の壁一面に、『モネの睡蓮(すいれん)』が何枚もあり、しかも少し湾曲していた。

 聞けばこの数枚の絵を展示するためにこの部屋を特別に作ったのだと言う。絵のために建物や部屋を作るとは信じられなかった。この『モネの睡蓮(すいれん)』はやさしい色調、ぼんやりした形、ゆったりした大きさなど、しばし心を和ませてくれ、中央の椅子に座ると池の中にいるような気分になった。ここの美術館でも記念に絵葉書を37.5フラン(約1020円)で買って、外に出た。

100年前の万博
 
まだ、16時なのに外はもう薄暗かった。また、セーヌ河畔を歩き、何回も何回もビデオの撮影のために立ち止まった。右手の木々に囲まれた所にはパリ万国博覧会の時に建築されたグラン・パレ(科学博物館と美術展示館)があり、屋根がアーチ型で珍しかった。

エッフェル塔
 左手の方には今から渡る予定のアレキサンドル3世橋があった。欄干が装飾され、さらには左右両端の4隅には金色に輝く像があった。この橋はパリ万博時に作られ、名前がロシア名なのはフランスとロシアとの友好を深めるためとの由来があった。 鉄の橋を渡り切り、しばらくすると芝生のベルト帯が横たわり、さらに前の方には大きな芝生の広場があり、親子連れも含め大勢の人がいた。

 そこはアンヴァリッドと呼ばれる建物で中には軍事博物館などがあると言うことだった。ゆっくり、広場をまわり、もどるように空港行きバスの出ているアンヴァリッド・エアーターミナルに行った。市内ターミナルも日曜日で休みのためか、開いてないようだった。バスもないので、仕方なしにタクシーで空港に向かった。

 エッフェル塔に登る時間がないため、運転手さんに塔の周辺に行ってもらった。タクシーの中からではあるが、首をねじ上げてもてっぺんが見えなかった。今から97年前(1889年)のパリ万博を記念して建られたのであるが、約100年前に良くもこんなに高い鉄の塔ができたものだと感心した。鉄の色は古かったがとても頑丈そうに見えた。

 後方にエッフェル塔を見ながら先に進むとセーヌ川があり、イエナ橋を渡ると前方に鳥が大きく翼を広げたようなシャイヨ宮(海洋博物館、人類博物館、美術館など)が見えてきた。芝生の庭園が広く、ねっころがり、のんびりしたいような気分だった。少し時間が気になりはじめたのでタクシーで広場の中をぐるっとまわってもらい、一路シャルル・ド・ゴール空港に向かった。

待ち人来たらず
 もしもフランスの人が私達の出迎えに来ているのではと思い、シャルル・ド・ゴール空港ターミナル2に行った。日本からのエールフランス機が到着するまでに少し時間があったのでターミナル内の喫茶店に入った。ここでワインやコーヒーを飲みながら今日まわった所や印象に残った場所など話しをした。

 時間になったので到着ロービーに行き、二手に別れ探してまわった。小林さんは相手を分かってらっしゃるが私は知るよしもなかったが、いかにも「私が日本の空港の者ですよ〜」と言うような態度でウロウロしてまわった。ついでにトイレにも行ったがフランス人が背丈が高いのか、私の足が短いのか、なかなか苦労した。

 今度は格好ぶらずに子供用でしようと思った。機嫌直しに愛想の良いパリジャンヌのいる売店に行き、新聞と絵葉書を買い、写真も1枚撮った。 約2時間位待ったが待ち人来たらずであきらめることにした。しかし、同時に皆で本当にフランスの方に連絡がついているのか一抹の不安を感じた。

デンマークのビール
 9時過ぎに仕方なく31フラン(約850円)の切符を買いエアーフランスの空港リムジンバスに乗ることにした。シャルル・ド・ゴール空港からポルテマイヨに行った。ここはエールフランス系列ホテル・メリディアンがあり、各国からのお客さんと一緒にバスから降りた。

 エレベーターで上がろうとしたら「少し待って」と言うことで先にホテルのお客さんからになった。なぜかなあと思いつつ待ってから上がった。地下鉄のポルテマイヨからパレ・ローヤル駅に向かった。 オペラ通りの方へしばらく歩くと「今日は中華料理を食べよう」と言うことで意見が一致し、『敦煌酒楼』と言う店に入った。ここで春巻、焼きそば、ラーメン、唐揚げなどメニューや隣のテーブルの皿を指さしながら各々頼んだ。

 ビールはここまで来たのだからフランス製でも飲もうかと思ったがメニューを見たらそれらしきものはなかった。よく考えたら、フランスは料理とワインは一対、昼でも水代わり位にワインを飲むと言うことを思い出した。デンマークのカールスバーグ社製のビールを頼んだ。この会社は1969年にツボルグ社と合併し、新社名はユナイテッド・ブルワリー社となった。

 カールスバーグ社はビールの酵母について研究し、ビールの腐敗の原因究明に力をそそぎ、細菌だけでなく、色々な不敵当な酵母菌にもその要因があることを発見した。そして優良下面発酵酵母を作り、世界初の酵母純粋培養装置を発明し、良質な酵母菌つくりのためにデンマークだけでなく、ヨーロッパのビール産業発展に大きく寄与したと言う。

 味は日本製ビールに慣れているのか少しなじまないが、まあまあだった。 中華料理の味はここで食べているのが中国本国で食べるのと同じなのか私自身中国に行ったことがないので知る由もなかったが、日本で食べる味と全然違っていた。春巻や唐揚げは使う素材も油もそう変わるものでないがラーメンや焼きそばの麺やスープは日本のと全く違っていた。 中華料理店を出て、オペラ座の大通りを歩いて、23時にホテルに帰った。

ミレーの落穂ひろい
感動を夢枕に
 一風呂浴び、ルーブルとオランジュリ美術館で買ってきた『ミロのビーナス』『モナリザ』『落穂ひろい』の絵葉書を出し、昨日と同じようにまた友人にはがきを書いた。時差ボケもなくなったので昨日以上に手が進み、10枚書き上げた。 それにルーブル美術館のガイドブックを取り出し、読みはじめた。

 私は生まれつき芸術的なセンスがなく、絵を描かせても自分で良くできたなと言うのは1枚もなかった。だから、絵画や彫刻を見ても、きれい、面白いと言う直感的な表現はできても芸術的にどうのこうのという知識や深い感動がある訳ではなかった。

 今日ルーブルで見た絵画や彫刻も芸術的なことはさっぱりで、ただ、「見たい見たいと思っていたものが目の前にある」と言う感動は大きいものであった。

 ガイドブックの説明の中で例えば「ミレーの『落穂ひろい』は「この絵の後方では金持ちの農夫がたった今まで大きい農場から収穫を行ない後片ずけをしている最中で、そのずっと前方に貧しい農夫3人が生活のために畑の中に収穫されていない落穂をひろっている絵である」

 「色調も後方は太陽の光がさしているような明るい色、前方は日陰のような感じである。それらの対象がきわだってるが、貧しい農夫に暖かい目で見ている。」と概略書いてある。買ってきた絵葉書を説明書きの通りに見れば、「なるほど」と思った。私の田舎は長崎の大村で家業は農業である。

 高校時代まで良く秋になれば稲刈りを行ない、木の物干しに黄金色の稲藁をかけ、田んぼに落ちている稲穂を父母と一緒にひらったものだった。この『落穂ひろい』の中の3人の貧しい農夫ほど田舎は貧乏ではなかったが、同じ落穂ひろいをした者として気持ちはよく分かった。

 ミレーがこの絵を描いた当時、芸術は金持ちの楽しむためのものであったと思う。よくこのような貧しい農夫を中心に絵を描いたものと思った。私は不勉強でミレーの詳しい生い立ちや考え方は知なかったが、この絵を見るにつけ人柄の良さを感じた。 この『落穂ひろい』の絵以外にも何点かの説明を読んだ。

 自分で見たままの絵もいいと思うがガイドブックに書かれている内容を見て、別の視点で楽しむのも良いと思った。 ページをめくる手に疲れはなかった。しかし、明日のことも考え、本を枕元のテーブルの上に置いた。大きく背伸びをし、『ミロのビーナス』や『モナリザ』のような美人が夢に出てくることを念じ、毛布をかぶった。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年6月3日)

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