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(このページは、主に1986年2月17日のことを書いています)

駅を間違えて
  パリ3日目の朝もどんよりとした天気だった。今日は天気とは逆にはじめてフランスのデポワルさん達との会議やシャシャルル・ド・ゴール空港の調査ができるので、少し心うきうきしていた。朝食後、会議用にテープレコーダーやノート、撮影用にビデオカメラを準備し、茶色のバッグに入れた。

 9時10分、ショセ・ダンタン駅からマリー・デ・モントレール駅に向かった。乗車駅から17番目の駅でその路線の終点だった。かなり、長く乗った感じであった。降りた所はパリのはずれでまわりには高層ビルがなく高くても3〜4階、ほとんどが2階位のビルのようだった。目的のビルを探そうと少し歩きまわった。 「何か変だな?」と小林さんが言われ、道ゆく人にたずねると住所間違いであることが分かった。タクシーを探し、4つほど駅を戻る感じで今度は直接ビルに行くことにした。

 タクシーを降り、目の前に『CGT』の浮き彫りの字が見えてきた。6〜7階位で、6角形か8角形の大きいビルのように見えた。この前でビデオを取り出し、会館の全体を写した。四つ角の通りも含め車の行き来を撮ろうと思いカメラを振ると向かい側のビルに大きなBMW(ベー・エム・ベー)のマークが入った。

 受付に行くと女性が微笑んで出迎えてくれた。デポワルさんに会いたい旨の申し入れを行なうと快く電話をされた。しばらくすると事務所のある階を教えてくれて「さあ、どうぞ」と言うことになった。

 受付からぐるっと右回りに進むと建物の中庭の様なホールに出て来た。吹き抜けの作りで、天井はガラス製だった。ホールは良く見ると1000名規模の大きな大会や集会ができる位のスペースがあり、演壇や垂れ幕もあった。さらに目を転じると色々なマークが見えた。ここでもビデオを取り出して、ゆっくりゆっくりまわし、変わるがわる、歩きながら止まってポーズとったりした

CGTの建物
連絡は入れたのに?
 事務所に行ったところ、これまた女性の方(秘書)が応対された。「私達は日本から来た者です。デポワルさんにお会いしたい」と来意を伝えた。ところが小林さんの話によると「まだ来てない。今日日本から皆さんが来ることも知らなかった。早速自宅に連絡する」と。電話連絡を待っていると「1時間くらい遅れては来る」ということだった。

 私は秘書と小林さんの話を聞きながら物珍しそうに部屋をぐるっと見渡した。パリまで来て畳を数えることもないが、約6畳位の部屋と思えた。壁にはほとんど掲示物はなく、デスクの上も整理されており、機能本位の部屋と思えた。 話の流れから仕方なしに私達は部屋を一旦出ることにした。「手紙でも電話でも連絡したのにな〜」と小林さんは言われ、私も東京で電話されるところを見ていたので、「そうですね」と言った。

会館内の喫茶店
 エレベーターで再びホールに降りて来た。今度は時間があるので歩きながらホールを一周し、演壇の上にも上がった。壇上には20〜30人は座れるかと思われるひな壇席もあり、そこからホールを見渡すと丁度大阪の池田市民文化会館・大会議室を6角形にした感じに見えた。しばらくホール内をうろうろした。

 2階席を見上げると喫茶店らしきものが見えてきた。3人とも喫茶店の方に上がり、時間を費やすことにした。おのおの喫茶店のカウンターに行き、飲み物を頼んだ。私はジュースをテーブルに運び、飲んだところ天然100%の果汁か、本当に美味しかった。 ここの喫茶店は座席数が約50位あり、幅もゆったりとしたものだった。

 小林さんが今までの経過や今日の予定をデポワルさんと話し合われている間に、私はビデオカメラを取り出し部屋の中をぐるっとまわした。話しておられる二人だけでなく、秘書の方にもカメラを向けるとにっこりと微笑んで下さった。30分位して、次の別室の小さな会議室に移った。

 日本語とフランス語が交互に飛び出す会議がはじまった。最初はフランスの航空会社、働いている人の状況、旅客、貨物、グランドハンドリングなど航空全般に渡ってデポワルさんに話して頂いた。また、航空政策(規制緩和など)もこちらから質問した。 約1時間程話し合ったあと、さらに別の大きな会議室に行った。

歓迎会
 そこには財政担当の方も新たに加わって頂き、ちょっとした歓迎会がはじまった。朝からしかも仕事中にお酒を飲むことをためらいつつも、乾杯のあとシャンペンとワインを酌み交した。こちらからも日本製のウイスキー、飾り用の扇子や人形、さらには松尾さんの子供さんが作られた折紙などのお土産を渡した。秘書の方が扇子や折紙を手にして喜んでおられた。

  お昼も来たので会館内のレストランへ連れて行って頂いた。数十人の食べておられるテーブルをくぐりぬけ、私達は特別コーナーのような所に着席した。前菜、メインディッシュ、チーズ、デザート、ワインなどの料理だった。本格的なフルコースの料理はパリに来て初めてだったので楽しみだった。元来が早食いの私だが一品ずつゆっくり味わいながら食べた。料理はいずれも美味しく、皿に残るものはなかった。

1986年当時のCDG2ターミナルビル(AFのパンフレットより)
 ここでも私達はデポワルさんにフランスの航空情勢について質問を繰り返した。日本ではアメリカとの航空協定は不平等で問題になっているが、フランスでもアメリカの圧力があると言うことだった。また、1985年8月、日本航空の「123便事故」も話題になり、フランスでも大きく報道されたと言うことだった。

 意見交換する中で「アメリカ流の航空規制緩和政策」問題と空の安全については、完全に意見が一致した。 食事の最後の方に丸いままの大きいチーズが出てきた。まず、私からナイフを入れることになった。知らぬこととはいえ、カステラを切るような感じでナイフを向けると「ノン」言われた。

 デポワルさんから丁度「6Pチーズ」の様に切るよう教えて頂いた。1年中牛乳、バターやチーズなどの乳製品は全く食べないのでこんな時に恥じかくな〜と思った。1時間以上の会食になったので質問は途中で切り上げ、空港に向かうことにした。

シャルル・ド・ゴール空港
 地下鉄とバスの共用券を利用してシャルル・ド・ゴール空港(CDG)前の運輸省関係のビルに着いた。ここでデポワルさんに空港内立ち入り許可証(ランプパス)をもらう手続きをしてもらった。 許可証が降りるまで時間があったので別室で日本で言えば部長クラスの人かと思われる役人にお会いした。

 壁にシャルル・ド・ゴール空港の地図が張ってありそこを指さしながら、面積、滑走路のの長さ、ターミナル、取り扱い量などていねいに話してもらった。

 概略は私達も『世界の空港』の本で予備知識はあったが本国のお役人に実際聞いてみると迫力があった。記念にシャルル・ド・ゴール空港の地図を一枚頂いた。この地図は5色位の薄めの色で詳しく描かれており、分かりやすい物だった。

 シャトルバスを乗りついで3日前に降りたシャルル・ド・ゴール空港ターミナル2(CDG2)のビルに着いた。お客として降り立ったのと空港を調査を目的として見るのとは同じターミナルビルでも違うような感じがした。デポワルさんと知り合いの空港担当委員とお会いした。その方の案内で、事務所や職場を見ることになった。

明るいエールフランスの地上係員さん
 にぎやかな笑い声の漏れるドアを開けるとそこは旅客手荷物コントロールセンターと地上係員さんの待機室であった。手前の方にコンピューター、テレビ、電話、無線機などがデスクの上に所狭しと置いてあった。 待機室の方には5〜6人位のGHさんがカフェオーレを飲みながら談笑しておられた。

 空港担当委員の方が私たちのことを紹介されると笑顔で明るく「ヤー!」と接して頂いた。私はおじきして、それに答えた。 当り前のことだが制服ばかりのGHさんに囲まれると、「あー、ここはエールフランスの旅客の職場だなー」と思いつつ、顔が少し赤くなった。あまり大きい部屋ではなかったがぐるっと見渡してから、「メルシー、さよなら」と言いながら廊下に出た。

1986年当時のターミナルビル(同上)
スチュワーデスの新制服
  階を上がり今度は出発ロービーに行くことにした。お客さんと同じ場所の手荷物や身体検査装置を通過した。ローマ、ロンドンどこの空港の検査も厳しいが、ここも客に対しては熱心だった。私達は空港関係者からか形通りの検査はするが割合スムースに入れてもらった。

 近くのスポットの見えるゲートに行って、デポワルさんに色々説明してもらった。トラックでのコンテナーの輸送、バッテリー式のタグ車、航空機に直接接続して乗れるモービルラウンジ(昇降できるバス)など大阪空港で見慣れないものばかりだった。 ハンドリング作業そのものは同じジャンボ(B747)やエアバスA300機なので、そう大差はないがスポットや施設はゆったりと作られている感じだった。

 全体的に新しいターミナルビルなのでゆったりした中でも無駄のない、至る所に工夫の後の見える作りだった。ここでも説明を受けながら、ビデオをゆっくりまわした。遠くの駐機場にコンコルドやB737機などのエールフランスのマークの入った白い機体が見えた。 一旦ビデオを止め、2〜3つ位離れた別のゲートに行った。

 そこは今までいた椅子よりもハイクラスのソファー、カウンターが置いてあった。聞けばここのゲートはコンコルドラウンジと呼ばれる特別フロアーであった。ここで空港担当委員の方から、手荷物に付けるタグやその他コンコルドに関するチラシなどもらった。よく見ると他の機種よりも総べて違っていて高級なイメージだった。

 スポットの真近では何種類かの制服を着たモデルさんが男性の指示によりポーズをとっていた。ビデオをこちらがまわすと慌てて、「これは新作のスチュワーデスの制服で、まだ未発表なので撮らないでくれ!」とクレームを受けた。一応撮れていたこともあったので、素直にスイッチを切って、近寄っていくと、モデルさんが微笑まれた。

お礼を言って
 コンコルド・ラウンジを後にして、また、来た廊下をゆっくり歩いた。所々に売店があり、日本人客が多くいて、お土産を搭乗ぎりぎりまで買っていた。私達も数日後帰国する時このゲートの店で、あーやって買って帰るのかなーと思った。店は化粧品、バック、スカーフ、服、アクセサリー、酒、チョコレートなど市内で買えるものは大きいものを除きほとんど置いてあった。

 到着ロビーの方向へ歩いて行った。時計を見るともう17時をまわっていた。まだ、貨物上屋など見たかったが、残業してもらってまではと思いあきらめることにした。ここで、3人とも「ありがとう、メルシー」とエール・フランスの空港担当委員の方にお礼を言った。堅く握手して、職場に帰られるのを見送った。途中何度も振り返られ、手をふって下さった。本当に人柄の良い方だなあと改めて思った。

リムジンバスの中で
 18時過ぎのエールフランス空港リムジンバスに4人で乗り込んだ。ここでもデポワルさんに対する質問は続いた。あまりいやな顔をされずに航空関係のことだけでなく多くのことを答えられた。

1986年当時のエールフランスバスの切符
 「子供の新学期が2月17日からはじまる」、「地下鉄にも1等、2等がある」、「パリの空港はシャルル・ド・ゴール、オルリーのふたつが有名だがそれ以外にもル・ブルージュ空港もある。今は定期航空には使われていないが航空ショーなど盛んだ」 、「パリの空港公害はオルリー空港、A300機の夜間発着禁止問題やシャルル・ド・ゴール空港、滑走路3本目を作らせない問題などあった」

 話はつきないがバスがポルテ・マイヨーに着いてしまった。地下鉄のポルテ・マイヨー駅内で今までの親切な接待、わかりやすい空港調査などに対し深く感謝の言葉を述べ、握手してお別れを言った。私達は見えなくなるまでデポワルさんを見送り、構内で切符を買った。

 19時をまわったところでショセダンタン駅に着いた。もう何回も歩いた道ということと、初めての空港調査を終えたこともあり、足とり軽くホテルへの道を急いだ。 「よかったですね」、「そうだね」など他愛もない会話の中にも、ほっと一安心という気持ちで休んだ。

大判のようなイヤリングをした女
 しばらく部屋でくつろぎ夕食に行く相談をした。ショセダンタン駅からポンピドー・センター近くのレアル駅に行った。冬のパリの夜は本当に暗い。男3人でもできるだけ明るい通りを選んで歩いた。大通りから路地裏に入り、少し古いレストランに入ることにした。入口には3種類のケーキの入っているガラスケースがあり、その横には植木が置いてあった。

 ウエイトレスが席を案内してくれて、左奥の4人掛けのテーブルに連れていった。 メニューを見ながら ウエイトレスを見ると左耳に小判でなく大判のような大きいイヤリングをしていた。実際は軽いのかもしれないが金属製なのでいかにも重いような感じがした。フランス語がしゃべれないので自分の左頬に両手でイヤリングの形をして「大きいね、形が珍しいね?」といわんばかりにすると、通じたのかにこっと微笑んでくれた。

 食事は各人で好みの魚、鳥、肉などを食べ、今日歩きまわったシャルル・ド・ゴール空港やデポワルさんとの会談などの話しで盛り上がった。また、今日は空港内で良く歩きまわったのでなんでも良くおなかに入った。トイレのため2階に上がるとそこには少しパンクロック風の若者の一団がいて話しが弾んでいた。

 「トイレどこですか?」とおそるおそる聞くと、通うじたのか指さして教えてくれた。どこも旅行者には丁寧なのかなと思いつつ降りてきた。 支払のために席を立った。そこには先程の ウエイトレスがいたので、また、イヤリングの方に指さすと小林さんから「よっぽど、上野君は気に入ったんだね?」と言われ、皆で笑い合った。

サンジャックの塔
 レストランを出て、しばらく大通りの方へ歩くとサンジャックの塔が見えてきた。1522年建設でパリでも大変古く、高さは52メートルと言うことだった。 この塔はパスカルが大気圧の実験(半円球のボール2個を重ね中を真空にして両端を2頭の馬で引っ張り、ボールにかかる大気圧のあることを確認)をした有名な場所であった。

 暗くてよく見えないのが残念だが理科の教科書のさし絵を思い出し、当時この場所は物珍しさと人だかりで大変なにぎわいだったろうなと思った。

地下のライブハウス
 理科の次は音楽ということで、セーヌ川の近くにあるライブハウスに行った。目が慣れていないのと地下に下って行くために手探りで行く感じだった。それにしても古いビルで暗い店だった。地下の中1階がクロークで大柄な女店員のいた。そこに小物を預け、ここでもチップだった。

 さらに下ったところがフロアーで少し上のところにバンドがいて演奏中だった。音楽は詳しくは知らないがジャズのようでもあり、ロックぽいようでもあり、フュージョンと言うジャンルかなと思った。乗りやすい曲とそうでないのとの差があり、その時々によってフロアーの踊りの輪が違った。

 休憩タイムに入り、おのおの飲み物を注文して、この店の印象をお互いに話し合った。また、小林さんから「上野君、踊りに行きなさいよ」と言って冷やかされた。ウイスキーをちびりちびりやっていたら、また、演奏が始まった。バンドの近くに聞きに行ったり、フロアーの後ろ壁に背もたれたりしていたら帰る時間になってしまった。

ローマのコロッセオ
 聞き慣れた神戸のジャズや博多、梅田、六本木などのオールデイーズのバンド演奏に比べれば少しもの足りない感じもした。しかし、パリで始めて本格的な音楽でもあり、「まあまあでしたかね」とお互い声かけあい外に出た。外は寒く、飛び乗る感じでタクシーの中に入ってホテル名を告げた。

明日はローマ
 風呂にゆっくり入り、冷えたからだが暖まった。時計はとっくに23時をまわっていたが今日の空港調査のまとめをすることにした。テープレコーダーを再生しながら、書き写したノートから主な所をさらに別のページに清書していった。2時間の録音を聞き直すのも時間がかかった。

 しかし、自分のメモに不足していることもあり、生録音の威力を発揮して、本当にためになった。 眠たいが「その日のことはその日に大枠まとめておくといいよ」というある先輩のアドバイスも聞いていたので頑張ることにした。シャルル・ド・ゴール空港本体、ターミナルビル、取扱量、グランドハンドリング、交通アクセス、公害問題、働いている人の状況、フランスの航空政策など抜き書きした。 概略出来上ったところで睡魔に勝てず机から離れ、「明日はローマだ」と思いつつベッドにもぐり込んだ。

 <補足:「はじめに」のページにも書いていますが、この旅行記とは別に約百ページくらいの空港調査報告書を事前に書いていた関係上、航空問題や空港施設関係のことなどは、このページにほとんど書いていませんので、ご了承願います>

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年6月22日)


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