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(このページは、主に1986年2月19日のことを書いています)

屋上で朝食を
  昨日の歩き疲れもとれたかのように3人とも「おはよう!」との掛け声で起きた。松尾さんも今日は調子よさそうだ。エレベーターで7階のレストランに行くことにした。ここは南国の陽光がさんさんと輝く部屋で白いテーブルクロスが目にまぶしかった。テーブルにつく前に部屋を一周した。

 大きな窓ガラス越しに周辺の古いビルや眼下に昼夜別なく車の多いトリトーネ通りが見えた。レストランスペース以外にもこの階には空き地があり、屋上のような感じだった。 パンとエスプレッソをたのみ、ゆっくり外の景色を楽しみながら食べた。

 パンもコーヒーもパリとローマでは形、味とも全然違っていた。バスケットの中のパンは堅い、柔らかい、大きい、小さいと色々あったが柔らかいのを取った。少し苦みのあるエスプレッソとジャムつきパンが良く合った。昨日歩きまわった所や今日調査に行くレオナル・ド・ダビンチ空港の打ち合わせを兼ね話しをしていたら直ぐに1時間近くなった。トーゾ氏との約束の時間もあるので急ぎ部屋にもどり下着の洗濯も済ませてホテルを出た。

1986年当時ローマ空港内、ハイリフト車
ビデオもカメラもノー
 
タクシーを拾い「アリタリア航空本社前まで」と告げた。市内は丁度出勤途中のラッシュアワーで車が多い。私達は逆方向なのでスイスイと古い建物や人通りを見ながら行った。本社ビルの大きな駐車場には約束の10時前までについてしまった。ぐるっと見渡していたら「ミスター・コバヤシ!」の声をかけながらトーゾ氏が握手を求めて近ずいた。トーゾ氏の車に乗り換えて「昨日のローマはどうでしたか?」「ええ、良かったですよ」の会話と共に一路空港を目差した。

 ターミナルから少しはずれた駐車場にトーゾ氏がパスを見せながら車を入れた。ここでベンツの自家用車は置いておき空港案内用のワゴン車に乗り換え、ビデオやカメラを持って乗って空港ゲートに行った。このゲートには自動小銃を持った兵隊が点検しており、1度目は私がむき出しに持っていたビデオが「ダメ!」と言われた。トーゾさんが1〜2回交渉して下さったが固い返事でまた駐車場にもどった。

 再度ゲートに行ったところ今度は松尾さんがもっていたソフトバックを見つけその中にカメラがあり、また、兵隊が「ダメ!」と言った。今度も先程以上にトーゾ氏が「日本の方だ。空港見学できている。カメラ位いいじゃないか!」と猛烈な大声で交渉して下さった。しかし、答えは変わらず「ダメ」でいや〜な思いで再び駐車場にもどりカメラを置きに帰った。少し車の中で気まずい思いがしたので「すみませんね。どうしても話だけでなく日本の方にも実物を見せたかったので。無理しましたね〜」とこちらから言った。無言のまま空港内に向かった。

上下する貨物ビルドアップ
  車の正面の方向に赤い車が見えた。すると「あれは空港消防署で24時間体制、8時間交代制勤務で合計60名で緊急時に備えている」と説明された。大阪空港の人員(大阪は確か車両の数より人数が少なかったと思う)比べ充実していると思った。

 右方向にハンドルを切るとそこに貨物上屋が見えてきた。上屋前や横に数台のトラックがあったが中の方は暇な時間帯なのかガランとした感じだった。上屋の左端の方に今からちょうどパレット組みのため準備中の3名の従業員の方がいた。大阪空港ではパレット組み作業はドーリーかステージの上でやっている。しかし、ここでは自動車の修理工場にある油圧式の上下動する機械と同じようなものにパレットをセットしていた。これだと重い貨物を上に積むのではなく、下に投げるような形で貨物をセットできるので楽だと思った。

 「いつも何名位で、時間はどの位かかりますか?」と質問した。「3名で約20分かかる」と答えられた。パレットをセットしていたのでお願いして実際ビルドアップしてもらった。私は貨物関係は全くの素人なので時間が早いのか遅いのかわからなかった。でも、腰の位置から貨物を投げるような感じで組み立てていくので、大阪でやっている方法よりはずいぶん楽な感じがした。働いている人も日本から見学に来た私たちのためにか確かめるように作業していた。 広い上屋内を少し歩いてまわった。

 コンテナー、ドーリー、倉庫など日頃見慣れている全日空の貨物上屋とそう大きく施設や機材・器具は変わるものはなかった。ただ、古いのとフライングタイガー、パンナムのマーク入りのコンテナーがあり、そこが少し違った感じであった。再びパレット組み作業している人達にお礼と「さよなら」を言い、次の手荷物上屋に向かった。

薄暗い手荷物上屋
 貨物上屋が閑散としていたが手荷物上屋の方はベルトコンベアー、コンテナーが乗っているドーリーが忙しく動いていた。ここで取り扱いの便数や従業員の数、勤務実態など質問した。「取り扱い便数はアリタリア航空が200便、その他のエアーラインが150便で合計300便だ。

 従業員数約360人(120人×3シフト=360人)、勤務は早出、遅出、夜勤の3シフトだ。手荷物用ベルトコンベアーは5本あり、1本あたりの作業員は9人で対応している。その他ラッシュチーム(緊急対応の作業班)もある」など教えて頂いた。 従業員の方はベルコンから流れてくる大きいサムソナイトタイプの手荷物を積んでおられた。軽く会釈してベルコンの根元の方へ行った。上屋内は奥の方だったからなのか少し薄暗い感じがした。日本と施設面はあまり変わりなく、ぐるっと見渡してからランプサイドに止めてある送迎車に向かった。

1986年当時ローマ空港内、タグ車
生活協同組合
 送迎車は、朝に車を止めた空港駐車場に向かっていた。トーゾ氏が左の方の2階建てのビルを指さしながら「あれは従業員用の店だ」と言われた。小林さんが補足して「丁度日本で言ったら、生活協同組合みたいなものだろう」とおっしゃった。 さらにトーゾさんの説明は続き「品物はほとんどの物を取り扱っている。

 市価の値段より大分安い。品物によっては半額位だろう。ただし、リンゴ1箱とか言う単位だ」と。つまりまとめ買いをすれば随分安くなると言うことだろう。 わたしは大阪空港ターミナルにある6畳位の日航生協しか知らなかったので、ここの生協の大きさや取り扱っている量にびっくりした。

 良く考えてみると働く者の収入を増やすことも大切だが生活に密着したものから支出を抑えることも生活の維持向上の観点から重要だと思った。この点は私達が遅れている分野で色々考えさせられた。 手押し車や買い物かご下げて出入りしている2〜3人の従業員を見ながら、車はゆっくり空港出口に向かった。

田舎の高級レストラン
 お昼過ぎになったので昼食をとることになった。空港からこれまで全然見たことのないような田畑や海を見たりしながら約15分位走った。家波を縫うようにして走っていたので田舎なんだろうなと思っていたら、10台位止められる駐車場に車は止まった。 入口に置いてある緑濃い観葉植物の間を通ると純白のテーブルクロスが五つ程見えた。窓際は日差しで照り返っていた。白い上着を着たウェィターが奥のテーブルに案内した。

 メニューを見ながらトーゾさんが「皆さん、何を食べたいですか?」と言われた。メニューを見ても直ぐわかる訳ではないので総べてお任せすることにした。 私は壁の方に向かって座ったので体をひねると派手さは全くないが、質素でもそこここに古き良き内装で高級レストランのような感じがした。水や食前酒を飲みながら、トーゾ氏が来日された時の話におよんだ。聞くと「一度、妻と二人だけで目の前で魚とか海老を料理してくれる店(炉端焼きのことか?)で食べた。私は合わなかったが妻はおいしいと言ってよく食べていたよ」と。なかなかの日本通であると思った。

 海老のフライ、白身魚のムニエル、スパゲティーなど食べながら話しはイタリアの航空会社の状況の話しをまずされた。イアタリア国内の航空路線網の話しをされる時ナイフを使いテーブルクロスに筋を引きながら「ここのローマからシチリアへ、北のジェノバ、トリノ、・・・あそこがミラノ、ナポリ・・・」と説明されるのには少し驚いた。さらにはトーゾ氏の経歴にも触れられ話はつきなかった。

アイスクリームにオリーブ油
 食事も終わりに近ずいてきた。どれもこれも単品づつ食べると美味しかったが少し油(オリーブ油に慣れていない)が合わないのか、量が進まなかった。ギャルソンが数種類のアイスクリームをワゴン車に載せてやってきた。 ローマのアイスクリームの美味しいのは有名と後日知ったが、その時は「わあ〜今度は油とも関係ないし、あっさりするだろうな〜」と思っていた。

 じっと見て、日本で見慣れている白い方のアイスクリームのジャーの方を指さして頼んだ。ウェィターは目で分かったと言うそぶりをして、皿に盛ってくれた。 各自の皿にも好みのアイスクリームが置かれた。さあ、食べようという矢先、何とそのウェィターは至極当然のごとくテーブル上にあったオリーブ油を真っ先に私のアイスクリームにかけたのでした。

 思わず「あーあっと」と喉から声が出る位になった。頼みもしていないのに何故注ぐのだと恨みたくなった。手がしばらく動かなかったが「郷に入っては郷に従え」であきらめてやっとのことスプーンを手にした。 最初は油ごとすくっていたが目立たぬようにして油をできるだけクリームからかき分けて食べるようにした。

 クリーム自体は美味しかった。ただ、下の方は油の中と言う感じで結局全部食べれなかった。 後でこのことを二人に愚痴ったところ「上野君、オリーブ油は日本では高いよ。小さな瓶で、何百円も、大きさによっては何千円もする高級品だよ。イタリアでは日本の醤油のように何でもかけるみたいだな〜」と言われた。

 これから後5日間ローマ、ロンドン、パリのレストランでスパゲティーなどオリーブ油を使った料理に縁があり、最後の方には慣れてきた。でも、それにしてもアイスクリームにオリーブ油をかけるとは。まいった。少し胃のもたれを気にしながら、再び空港に向かうためレストランをあとにした。

1986年当時立ち入り許可証
今度は大丈夫のはずが
 空港入口付近にあるレオナル・ダヴィンチ像を見ながら車はゆっくり進んだ。途中、私が不安そうに「今度、ビデオは撮れますかね?」と質問した。「今朝、兵隊から、空港内はビデオもカメラもだめ!」と言われたので私達は神経質になっていた。

 しかし、私の答えとしてトーゾ氏が、「今度のアリタリア航空貨物上屋は任しておいてくれ。私達に非礼な態度を取ると私が承知しないぞ」と言うことだったので「今度こそビデオは大丈夫」と言う思いが強かった。

 小林さんに聞くと「トーゾさんの出身はアリタリア航空で、職種は客室乗務員だった」と。「あ〜あ、それでアリタリアには強気でいけるのか」と思った。トーゾさんのベンツに乗り変えて目的地のアリタリア航空の貨物上屋の事務所に向かった。ビル前に車を横付けし、「今度こそ、イタリアまでビデオを持ってきた甲斐があるだろう」と思いながらトランクルームから引き出した。

 2階の事務所は広くて南向きの部屋なのか南国の陽光が差し込んで明るかった。日本ではさしずめ貨物部長、課長と思われる方さらには男女のスタッフ方がにこにこ顔で出迎えて下さった。お互いに名刺の交換も行なった。もらった名刺にはアリタリア航空のマークが入っており、改めて日本でも馴染のある航空会社の社員の方だな〜と実感した。

 こちらから小林さんが一通り訪問目的や見たい所など話して頂いた。案内役の方も「わかった。わかった」という感じで笑顔で応対しておられた。さらに「貨物上屋などでビデオ撮影は可能か?」と聞くと、とたんに難しい顔になられた。数分間トーゾさんの方からも力添えして頂いたが結局だめだった。「あ〜あ、ここもだめか」と思いつつビデオ入りの鞄を女性社員の方に預けた。

港の倉庫のような
 貨物上屋は横幅は上屋前のオープンスポットにジャンボ(B747)機が3列に並べる位であった。目算で横幅は約200m位、奥行きは約150m位だった。床面積と容積だけは資料でわかるので見ると23.100平方メートル(約6930坪)、と1865.00立法mと書いてあった。この大きな貨物上屋をまず端から端まで歩いた。 そこには国際線専用と思われる大きなコンテナー(幅6m、14トン積載可能)があった。目を上に転じると3階建てのコンテナー保管用ラックが組んであった。よく見ると搬送用のタイヤやローラーがラックのフロアー面にほどこしてあった。このラックの長さはこれまた目算であるが約100mあると思われた。

 貨物上屋担当責任者の方が「直接コンテナーを移動させてみましょうか?」とおっしゃったので「ええ、是非見せて下さい」とお願いした。担当者の方は1階あるスイッチ類のたくさんあるコントロールルームに入り、実際コンテナーを1階から2階奥まで自動的に動かされた。私達はあんな大きいものがコンピューター制御で自動的に動くのだなあと感心した。 担当者の方もご自慢らしく「ここに来てみてくれ。

 2階でも3階でもどこのパートやセクションでもこのボードでインプットしておけばコンテナーを運ぶことができる。日本にも特許として売っている(成田空港の貨物上屋のことだと思われる)」と言われた。

カード式自動販売機
 同じ上屋内の休憩室に案内してもらった。他にもあるのかもしれないが、ここの広さは20〜30畳ほどで広くなかった。ゆったりとしたソファーやテレビなどはさほど私達の職場の休憩室と変わることがなかった。入口の方に飲み物の自動販売機が置いてあった。機械自体は見慣れたものだった。

 しかし、コイン式でなく、コーヒー10杯分とか20杯分とかを打ち込んでいる水色のカードを差し込むことによって販売するシステムであった。各人が事前にまとめ買いすると言うことであった。早速歩き疲れもあり、コーヒーをおごって頂き、ソファーにどっかと腰掛けた。 コーヒーの味は日頃飲み慣れたものとは違うようで少しきつい感じもした。今まで歩いた貨物上屋や休憩室の話をしていたら、直ぐに10分、20分は過ぎた。

床にギザギザのレール
 休憩室から出て次にコンテナーの倉庫に向かった。ここのコンテナーは先程の大型な物より小さい普通国内線で使用されているサイズ(LDコンテナー)だった。天井に届きそうに数段重ねの貨物上屋だった。総て1階から数階にかけてコンテナーの保管、出し入れ、移動が自動のシステムだった。フロアーの上にはコンテナーを移動させるためのギザギザのレールがあった。

 等分の間隔でロックかコンテナーを引っ掛けるためのものか突起物もあり、始終カチャカチャと音を立てながら動いていた。 「すごい装置ですね。上屋にしては人も少ないですね」「これは金かけて作たんでしょね」「こんなんがあれば少しは日本の貨物も楽になりますかね?」 聞くとアリタリア航空の貨物担当の社員が約500人(到着200人、出発300人)、アリタリア航空以外の貨物担当の社員は600人とのことであった。

 実際コンテナーを移動させるところを見たかったが、時間の関係で上屋を出ることにした。まだ、16時前なのに南国イタリアでも日没が早いのか、それとも天候の関係か少し薄暗くなっていた。 体の調子に合わせた社員食堂 貨物上屋からあまり行かない所に食堂ビルがあった。2階に案内されて、ぐるっと見渡して100人いやそれ以上は入ろうかと思える位のテーブルと椅子の数だった。

 今まで日本の航空会社や市役所の食堂に行ったことがあるがそのいずれの所よりも大きい感じだった。食事時間でないため誰もいずガランとしていた。テーブルの上には水かオリーブ油か所どころに瓶が置いてあった。 厨房も何があるのか分からない位が広い。厨房から5メートル位の突き出た長丸いカウンターが5つ程あり、そこからめいめいお盆の上の皿に好みの食事を取っていく方法だろうと思った。このカウンターの一つは胃や内蔵の悪い人のため用だった。会計は個人使用分がコンピューター集計され、月末に請求されるとのことだった。

 「ここは、1日7000食を作る能力がある。24時間常にホットミール(出来立ての食事)を提供する。人間は動物ではない」との説明がトーゾ氏よりあった。 それならば「日本で働いている人は動物」と言うのだろうか? 私たちはいずれもが、心はこもっていても冷たい愛妻弁当(弁当屋で買ったものしかない独身者には冷たいものの何物でもないが)か、せいぜい、夕方の作り付けの夜食を電子レンジで暖めて食べるだけではないか。

 それで仮眠1時間で15時間近くも文句のひとつも言わず働いている日本の夜勤の実態はとてもイタリアの人には言えなかった。 「うらやましいかぎりですね」「24時間体制と言えば食事作る人もそうでしょうかね?」と言いながら外に出た。事務所に手荷物やビデオを取りに帰った。ここで説明をしてくれたアリタリア航空貨物スタッフにお礼をいって、このビルを後にした。車に乗り、次の乗員訓練センターに向かった。

チャーミングな教官
 乗員訓練センタービルはジャンボ1機分は入ろうかと思える位の大きさだった。ここは客室乗務員出身のトーゾ氏のお膝元で入口から誰彼なしに「やあ!、チャオ」と言う感じで挨拶していた。このセンター責任者の方が分かりやすい英語で各施設を総て説明された。

 このビルはビデオ撮影自由で、少し暗いのは残念だがまわし続けた。非常脱出訓練用のプール、飛行機のモクアップ(本物そっくりに作ってある機内やドア等)から下がっているエスケープスライド等を最初に見た。モクアップからプールまで普通の家の2階建て以上の高さから降りる感じだった。

 次に階上にあるモクアップに行くと、そこは日頃見慣れているジャンボ機の客室とそっくりでアッパーデッキに行く階段まであった。聞くと練習用に使う食器、ワイン、食事等も毎日の運航便と同様な物と言う。一度練習で食べてみたかった。説明中にトーゾ氏の後輩にあたるのかスチュワーデスの教官と思われる方が親しく話しされ、最後にビデオに向かって手を振られたので「チャーミング」と言うと、にこっとして出られた。

 同じ階にある会議室行くと、そこは15人位入れるLL(視聴覚教育用)教室だった。ガラスのコーナー、スクリーン、マイク、イヤフォーンなどはどこも同じようなものだが、ビデオレコーダーはソニー製品だった。乗員や客室乗務員の訓練センターを見たのはこれがはじめてではなかったが、どこの国のクルーも何回も訓練に励んで安全運航されるのだなあと実感した。

 私たち地上職の職場とは場違いであったが、このセンターではビデオも撮れたし、説明や施設も分かりやすかったので今まで以上に満足した。ガイド役の方にお礼を言い各々握手して別れた。

オオー、ソレミオ
 車にもどり空港からローマ市内へ向かうことになった。昨日見た風景だったし、今日1日の空港見学の疲れもあるのか口数が少なかった。ビデオもまわしていたが似たような景色なので一旦スイッチオフした。 突然市内近くでトーゾ氏がイタリア民謡を歌いはじめ、松尾さんがテープレコーダーをまわしはじめた。

 なかなか渋い節回しで1曲終わると「イェー!ブラボー!」と皆で声かけ合った。リクエストすると「オオーソレミオ」をこれまた車中一杯に朗々と歌い上げられた。もっと聞きたかったが、市内に入り車が混雑してきたので安全運転のため我慢した。 もうとっぷりと暮れた町並みの中に、フォーロ・ロマーナ、エマヌエーレ2世記念館が見えた。

 これからゆっくり大曲がりするとトリトーネ通りの方向であった。昨日の出迎えかえと言い、今日1日朝からずっと夕方まで熱心に案内、説明され、しかも昼食や自分の歌の披露までしてもてなされ、私たちを大歓迎してくださったトーゾ氏にはなんと感謝すればいいのかを考えていた。

 小林さんが「明日はイギリスのコリアーさんに会う」と言うと、国際会議等で仲がいいのか即座に「あの野郎に、よろしくと言っておいてくれ」と返事された。皆で大笑いになり、明日のイギリス行きを期待するものとなった。家路に急ぐ人たちの多い通りに出て、少し慣れてきた右側通行帯に止まるとそこはホテル・トリトーネだった。

 トーゾ氏とお互いに「サンキュー、ありがとう」「日本にもまたいらっしゃってください」と言いながら鷲つかみのような握手をした。イタリア語はもちろん英語もしゃべれない私も「サンキューベリーマッチ、シーユーアゲイン」を繰り返していた。私たちはトリトーネ通りをバルベリーニ広場の方向へ行くまで紺色のベンツを見送った。

当時の「ダ・エンツオ」店のレシート
2度目のダ・エンツオ
 ホテルに入ると通訳の方が明日の空港までのタクシーの手配をした。聞くと「当日のタクシーもハイヤーも同じ料金だったためハイヤーにした」とのことだった。これが明日朝思いがけないことになることには誰も考えなかった。「さあ、夕飯に出かけましょうかね」「どこにしましょう」「昨夜のの店は高かったし、安いスパゲェッティー屋さんはどうでしょう」との話しになり、結局昨日昼間行ったトレヴィの泉近くの『ダ・エンツオ』に決まった。

  昨日体の調子が悪く夜出歩けなかった松尾さんも今日は元気だった。2日連続店に来たので店員さんも私たちの顔を見てニコッリの感じだった。店に慣れたのか、空港調査の満足からか、ゆったりした感じでメニューを見て、各自好みスパゲェッティーを頼んだ。

 白のハウスワインを飲みながらレオナルド・ダ・ヴィンチ空港の警備の厳しさ、トーゾ氏の人柄等一通り今日の反省会をしていると、器一杯に入ったボンゴレ、木の子等のスパゲェッティーが運ばれてきた。食べながら話しが弾んでいるとどこから来たのか、前の方にマンドリンを持った男がにこやかに立っていた。

 言葉は通じないが私たちに興味を示したのか、曲を引きはじめた。マンドリンの生演奏は始めて聞いたが、素人の私でも途中で何回か指使いが悪いところがあった。1曲引き終えたので拍手すると催促するような顔していたのでチップを払ってあげた。するとアンコールに応えて、もう1曲引いてくれた。 「レストランの中でも演奏するんですね。驚いたですよ」「でも、あんまり演奏は上手じゃなかったねえ」「ええ、そうですね。私らが日本人だから来たのかな」などと話しが続いた。

 小林さんの「でも、旅の記念になったのでは」の言葉がまとめになった。 外に出て暗い町並みだが近くにあるクイリナーレ宮殿の壁だけを見て、コルソ通りに出た。しばらくするとパンテオンの中で見上げると天窓のようなドームになっていた。暗くて良く見えないのが残念だが、歴史のある大きい建物と思った。

 もう21時をまわっていたが、ナヴォーナ広場は車に積んだ物売りもいて人もにぎやかだった。「もういい時間ですかね」と言いながら歩いているともう馴染みになったトリトーネ通りに出ていた。

1コロッセオ前の3人
映画「ローマの休日」の実感
 ホテルの部屋ではガイドブックで19日、20日とまわった所を確かめてみた。ローマの極く一部なら学校の教科書やガイドブックの写真でも見たことはあった。でも、一番ローマ案内のお薦めはオードリーヘップバーン、グレゴリーペック主演映画の『ローマの休日』だと思った。

 この映画は誰でも知っているアン王女とジョー・ブラッドレー記者の淡い恋物語だが、随所に出てくるシーンは私たちが2日間まわった名所と同じような所が多いと思った。私たちが主に行った所だけでも

・最初のタイトルバックのヴァチカンのサンピエトロ寺院
・記者が王女を見つけたフォーロ・ロマーノの前、
・王女が髪を切った美容院の前のトレヴィの泉
・ヴェスパのスクーターで走っていたシーンのコロッセロ前

・カメラマンも含め3人で最初の遺跡見学のコロッセロ内部
・警察の手信号を無視して走った所のエマヌエーレ2世記念館の前
・飛行機からドヤドヤと黒づくめの警察官がおりてくるローマ、フミチーノ空港
・水上ダンスパティー会場のサンタンジェロ城とティヴェレ河畔
・二人が泳ぐティヴェレ川とそこに架かるサンタンジェロ橋

などを映画で見た所を歩き、実感したのであった。

フォロ・ロマーノ
 ただ、グレゴリーペックが手を入れた「真実の口」とヘップバーンがアイスクリームを食べた「スペイン階段」の2ケ所は(それ以外にも沢山あるが)行けなかったのが残念だった。次の楽しみにとっておいた方が、また、ローマに来れるのかもしれない。 このウィリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」はストーリーも、オードリーヘップバーンも、舞台のローマも、今なお最高にいいと思う。

 これが舞台は、東京かニューヨークで果たして「ローマの休日」のようなみずみずしい、誰からも好かれるような、もう1度見たい、見せたいと思わせるような映画はできるだろうか。音楽でも絵画でも映画でも、人に大きな影響を与える作品はその時代の時、場所、それに何よりも人が揃わないとできない物と思う。金をかけ最新設備を駆使しても作り得ない物もあるのではないか。

  町中のいたる所に名所旧跡があり、それをまた本当に大事にしている伝統、極く当然のごとくレクレーションをエンジョイするために働く人達(日本は逆で仕事に疲れたから休むと言うことかな)、人の幸福は金の多さではなく、生活・心の豊さなんだと言い続けるような国民性などはローマに来てみないと実感できないものばかりだった。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年7月3日)


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