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(このページは、主に1986年2月20日のことを書いています)

大統領並のリムジンカー
 ローマ3日目の朝は青空だった。早目の朝食は屋上でのパンとコーヒーだった。一昨日買ったネクタイ等のお土産をサムソナイトに、充電したビデオをザックに入れるともう準備は完了した。昨日予約したタクシーが、まだ7時30分前なのにもうホテル前に着いていた。車を見てさらに驚いた。

 なんとベンツのリムジン車(後方座席が向かい合わせで合計9人乗り?)で、テレビでよく見たことのある、あのどこかの大統領がパレードで使う物と同じであった。 「いやー、すごいですね」、「こんなんは始めてですよ。大統領になったような気分ですね」、「足が先に届かない感じですね」との話しに、小林さんが「でも、先約のせいかあまりタクシーと値段は変わらないと言っていたよ」と応えられた。車内が広いため、お互いに座席を行きして足を伸ばしてみた。

 気持までゆったりとなりそうだった。ビデオを構えながら車窓から最初に撮れた風景はもう見慣れたヴィットリオ広場とエマヌエーレ記念館であった。フォーロロマーナなどを見ながらローマの繁華街に別れを告げることとなった。「トレヴィの泉にコインを2回も入れたから、また、来れますよね?」「それはそうですよ。次回上野ちゃんは、新婚旅行でこれるよ。今回は下見だなあ〜」「そうなればいいですけどね。アッハッハ・・」「ちゃんとガイドできるようになったよね」

 ローマは、『永遠の都』、『美と光の光芒の都』などと色々な形容詞が付いた都市である。実質2日間の滞在ではほんの一部しか見れなかったが、もう一度必ず訪れたい所になった。それまでのしばしのサヨナラである。

1986年当時のアリタリア航空の航空券
煙草吸いながらのハンドリング
 8時20分にアイタリア航空(航空会社のコードはAZ)の旅客カウンターでAZ282便のチェックインをおこなった。ここの手続きはどのブースでも路線と関係なく受け付ける方式でゆっくりした応対であった。早目のチェックインだったので窓側のいい席(37L)が取れた。その後ターミナル内を少しウロウロとまわった。

 しばらくしてゲートに行くと日本人の団体客が多かった。時間があったのでビデオを取り出しスポットにカメラを向けた。目の下には今から乗る予定のアリタリア航空のエアバスA300機が翼を休めていた。隣のスポットにはトランスワールド航空のジャンボ機に貨物搭載中であった。

 古いタイプだが頑丈そのものハイリフト車(コンテナー搭降車)やドーリー車(コンテナー輸送車)が動いていた。ハイリフト車とドーリー車の間には大阪空港にはない珍しいトランスポーターもコンテナーを乗せて行ったり来たりしていた。 目を戻すとエアバスA300機にプッシュバック用のトーバーとタグ車と取り付けている人がいた。

 ゆっくりと、しかも煙草を口にくわえながらである。日本ではどこの空港も(燃料に引火する可能性もあるので)スポット内の喫煙は厳禁であり、もう驚くばかりであった。 ガラス越しの高い位置からではあるが、昨日撮れなかったスポット内でのグランドハンドリングの模様を充分撮れた。ちゃんとランプパス(空港内制限区域立ち入り許可証)を持っていたにもかかわらず昨日は撮れず、今日は普通の客で平気で撮れると言うこの矛盾。何か不思議な気がした。

彫りの深いイタリア女性
 外からカメラを振るとゲートでは女性地上スタッフがチェックインの最中だった。顔だちが彫りの深いなかなかのラテン系美人であった。そう言えばある本に「かわいい感じのフランス女性、美人型のラテン女性、良妻賢母型のイギリス女性」と書いてあった。これが当たってるのかどうかは数日しかいないのに分かるはずなかった。

 ゲートではさらにお客さんが増えたようでラテン系美人のスタッフはゆっくりとしたチェックイン作業ながらもテキパキさばいた。私達も9時50分にはゲートを抜け、ボーディングブリッジを歩いた。ぞろぞろと機内に向かう人には日本語が多く、実際団体客の多い後方キャビンには女子大生の一団が手荷物を頭上の物入れに上げていた。

 37Lの座席番号のある席につこうとしたら、別の中年の女性客がいた。おかしいな〜と思いスチュワーデスに言うとその客はブツブツ言いながらも替わってくれた。小林さんの方に聞くと「座席指定なしのフリー客のようだ」「そんなんがあるんですかね。」と言いながら窓側の席に着いた。

 10時5分にはランプアウトして、タキシーウェイへ向かう。昨日見学してまわったランプサイド、手荷物上屋、貨物上屋が見えた。「あそこも行ったな〜」と顔を窓にこするようにしていると20分に滑走路からテイクオフした。眼下には来た時と同じような柔らかそうな草木が見えた。また、ローマに来た時はもっとターミナルビルや地下鉄などの建設が進み、さらにきれいで便利な空港になっているだろうと思った。

万国共通の姦しい
 機内では水平飛行に入り、各々トイレに立つ者、前後に行き交う人などとそれぞれであった。その一団の中にはイタリアの女子高生かウオークマンを持って行ったり、来たりとじっとしていなかった。化粧した顔、耳にはピアス、口には煙草をふかしながらガムもクチャクチャで、口数はまるでマシンガンでだった。

 箸が転んでも楽しい時期ではあるが、田舎の母が良く言っていた「女の口は八人力」の世代にこの女子高生がなる頃はどうなるのか空恐ろしい感じだった。日本では「女3人寄れば姦しい」との言葉があるが、それは万国共通語であることを実感させてくれた。

 それに比べ20人程のパック旅行中の我が同胞の女子大生は、せいぜい自席で立ったり話したりする位で借りてきた猫のように大人しい。化粧けのしない顔はイタリア女子高生に比較すると中学生以下に見えるくらい、いずれも可愛らしく感じた。ビデオで機内風景をまわし続けていると小林さんや松尾さんの方も「上野ちゃん、良く撮れていますか、少し暗いかな」と話しかけてくれた。

愛想のいいコクピットクルー
 ビデオばかりまわしていたら、スチュワーデスの方が「コクピットでどうぞ」と誘われた。「えッ、操縦席を見れるのか、日本では考えられないな〜」と思いながらもいそいそと後を着いて行った。

 操縦席のドアは開いていたのでクルーに「ハロー、グッドアフタヌーン」と挨拶した。あこがれのコクピットで少し興奮気味だが窓の外を見ると陸地から海に機体は向かっていた。機長と副操縦士は盛んに地図を見てルートを確認していた。「あれはドーバー海峡だ」と教えてもらった。

 「アイム・ソーリー」と言いながらビデオを構えると、3人ともこちらを見てくれた。中でも航空機関士の方は片手を上げ、愛想のいいポーズまでとって下さった。長居すれば邪魔になるなると思いカメラを一周させて、「サンキュウ、グッドバイ」と言いながらコクピットを後にした。

 客室内は相変らずにぎやかでアチコチの通路で話しの輪が広がっていて、特に窓際の席は外を見ている人が多かった。その中で客室乗務員が、忙しくランチボックスや本などを回収していた。段々と着陸が間近だと思い自分の席に着くことにした。

1986年当時のロンドン、1日乗車券
天然の白い壁
 ドーバー海峡の波が白く蹴立ててるのが、近くに見えはじめたので機体の高度がかなり下がっているのを実感した。間もなくすると海峡からぐるっとテーブル状に盛り上がったような断崖絶壁が見えてきた。最初、「あれは雪かな?」と思っていた。でも近ずくと雪もあるのかもしれないが土地自体が白色のようであった。

 この断崖は丁度天然の白い壁のように見えた。この上は真冬にもかかわらず緑の草地や空き地もあった。さらに機体が降下し、手に取るように建物や木が見えはじめると最終着陸体制に入った。滑走路が右でも左でもあるように見えたのは本数が多いのか、それともコンクリートやアスファルトの地面なのか分からないまま飛行機はドーンと言う感じで12時25分に着陸した。

 ゆっくり通関や税関手続きに向かう時にちょっとした事件が起こった。通関手続き前の壁に『ウェルカム・ブリティッシュ』と大きく書かれた看板があり、いい写真のポイントだった。その前で日本の女子大生数人が写真撮影したところ警備員が飛んできて「そこはダメだ。撮影禁止だ。カメラは没収だ」との表現で迫ってきた。

 おろおろする女子大生から依頼を受けた訳ではないが、小林さんが事情を聞き、掛け合って頂いた。「撮影禁止の写真はいけないが、それ以外は個人の物だ。フィルム全部の没収はおかしい。取るならそこだけの1枚だけにせよ」と警備員に言われた。すると警備員は上司に相談に行かれたのか、しばらくするといいと言うことになった。

 女子大生から「おかげで助かりました」と笑顔でお礼があった。不思議なことにこのグループにはまた後日同じヒースロー空港で会うことになった。 「いや〜、ここも警備が厳しいですね。それにしてもフィルム1枚だけ取れとの表現は良かったですね。そこだけ取れる訳ないですからね」などの話しが続いた。

ホテルのカード
ホテル・ローヤルアンガス
 3時過ぎに到着ロビーでジョン氏が出迎えてくれた。ここら手荷物を車に乗せに空港駐車場に向かうことにした。プッシュカートを押しながら5〜6階建てはあろうかと思われる駐車場エレベーターに乗った。しばらくすると高速道路を走っているようで所どころにはのどかな田園や山林も見えていた。

 パリのシャルル・ド・ゴール空港、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港と空港名に人名が続いたので「ヒースローの名前の由来は何でしょうか?」と尋ねると「地名だろう」と教えてもらった。住宅街が多くなりかけた所からさらに走ると市街に入ってきた。ロンドン市内は全体が博物館のようだと以前聞いたことがあるが、本当にその通りだった。

 古くて格式のあるような建物、排ガスの汚れを落とすためアルミの櫓を組んで大理石の壁を洗濯中のビル、ほぼ高さが一定になっているビジネス街等を通り過ぎるとホテル前に着いた。今日の泊まりは『ホテル・ローヤルアンガス』で三つ星ホテルである。チェックイン後、旅装を解きに部屋に行った。

 落ち着いたえんじとアイボリー調の壁色と設備に無駄のない質素な部屋だった。後で洗濯物の干し台にもなるむき出しのヒーティングパイプが日本より緯度の高い国だと実感させる物だった。

風格ある建物
 下で待っておられるジョンさんに悪いと思い直ぐ部屋を出た。また、全員そろい今度は『TGWU』のビルに向かうことになった。行く道はまだ明るかったがビルの前に着いた時にはロンドンの夜の戸張が降りていた。 『TGWU』のビルはえんじと白の色調の建物で風格があった。

 説明を聞くと、以前イギリス労働党の依頼により建物ごと交換したとのことだった。指差す方向には労働党のビルが見えた。「えっ、本当ですか?日本じゃ考えられないですね」、「ここはロンドンの一等地ではないでしょうか」などの会話が続いた。

 入り口はあまり大きくなく、玄関ホールのガラス戸や壁には古い写真、さらにはここで業績のあった人の本などが展示してあった。2階の方へ進むと30人位の会議室があった。各座席ごと紙が中にセットしてある長方形のテーブルマット置いてあり、テレビ見たことのある国際会議場のような雰囲気があった。

 2階の方に上がり約30名位の椅子と大きいテーブルのある会議室に入った。テレビで見たことのあるようなメモ入れの皮ケースが座席の一つひとつに置いてあった。ここでしばらく雑談しているとモーリスさんが現われた。背の高い黒人の方だった。互いに自己紹介して、TGWUの現状やイギリスの航空界の情勢報告を聞いた。

TGWUの建物
 その中で「皆さんを歓迎します。私もまた日本に行きたい」などと話されたのには印象深かった。短い会談だったが親しみを感じた。しかし、テープレコーダーをもってこなかったため、有意義な話しを録音できなかったのが残念だった。その後会館の見学のため3、4階と見てまわった。

 大きな会議室は丁度日本の地方議会並みの大きさでスピーカーやテープレコーダーの電気機器はソニー製品だった。「賛成」「反対」の数は各座席のボタンを押せば天井近くの電光掲示板に示されるシステムだった。その他各事務室、資料室、印刷室等を見てまわって最初の玄関口に出た。

喉越しのいい酒は注意
 再びジョンさんの案内で繁華街に出ることになった。夕食をしようと言うことになり入り口から赤レンガ作りのレストランに案内してもらった。フランス料理の注文を取り、ビールでの乾杯から交流が始まった。ロンドンらしくスコッチウイスキーも次から注がれた。

 前菜、魚、肉料理と運ばれる間、お互いの航空の状況について話し合った。舌にまろやかで喉越しがいいので、ついつい飲み過ぎになり、「アイアム、ヘビードランカー」などと口走っていた。また、今日ずっと始めてのイギリスと言うこともあり、緊張していた糸が切れたみたいになっていた。

 このような外国で接待されている時は控えめにした方が良かったと反省するのは酔いがさめてからであった。日本のように外で飲んで「酒の席は無礼講」、「酔った勢いでドンチャン騒ぎ」などとの風習はイギリスにはなく、むしろはしたないことと思われていると言う。

 2時間近くの交流会も終わり、外に出た。さすがに真冬のロンドンは冷たく、ほてった顔にここち良かった。タクシーでジョンさんに送ってもらい、ホテル・ローヤルアンガス前で握手しながら、お礼を言った。 部屋に帰り、下着の洗濯をして、むき出しのヒーティングパイプに干すと、もうバタンキューでベッドにもぐりこんだ。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年7月16日)


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