高木さんのイタリア遊学記
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初めてのパーティー
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フィレンツェでの単身生活も、はや2ヶ月が過ぎようとしていた。街の雰囲気にも少しずつ慣れ、勝手の違う習慣にも当然ながら違和感はなくなっていった。また、レオナルドダビンチ語学学校にも毎日通ううち、だんだんと友達も出来てきて、何となく学校に行くのが面白くなってきた。 生徒 私の教室にはアイルランド、イギリス、ドイツ、メキシコ、ブラジル、スイス、アメリカ、コロンビア、オーストリア、クロアチアそして、日本と各国からイタリア語を勉学にやってきている。そして、この学校の生徒の平均年齢は27歳と言うことで、大体7対3ぐらいで女性が多いように見えた。 知美 クラスメートにはただひとり日本人で茨城県出身の可愛い女性がいた。名前は知美さんと言って、英語はペラペラだった。私はどれほど彼女に助けてもらったことかわからない。授業の宿題はもちろん、その他の街角の情報もいつも聞いていた。その時は笑顔で気軽に何でも教えてくれた。日本語で思うように話ができる私にとっては唯一の頼りになる大切な人だった。 ノート バスのショーペロ(イタリア語でストライキのこと)で学校を休んだ時、彼女は私のためにノートをとってくれていた。私の学校生活は「知美」を除いては語ることはできない。彼女は自分のことを「全然イタリア語が出来ないのでもう一度、このレッスンを勉強するつもりなの」と言っていた。彼女が「イタリア語がだめ」と言うなら全然イタリア語が出来ない私はどうなるのだろう。自分を誇示しない彼女の謙虚な姿勢にはいつも感心していた。
彼女のすばらしい考え方に気付いた私は早速、イタリア人の先生に再度の受講をお願いした。知性に溢れた女性の先生は「オー、ヒロシ。ベーネ、ベーネ」と笑顔で応えてくれた。日本語に訳すと「もっともだ。もっともだ」と言うことだろう。 もちろんよ 先生も「やっと気付いてくれたの。その言葉を昨日からずっと待っていたのよ!」と言っているようで、自分の小さな子供を世話するような優しい顔で両手を上げ、大げさに表現してくれた。授業中の生徒に教えている時より何となく上機嫌に見える。 日本で言えばジャンボ宝くじで1億円当たったような嬉しそうな顔(実際に当たった人を知らないので分からないのが本音)が印象に残っている。「そんなに喜んでもらうことかなあ」と私は何かしら複雑な気持ちになると同時に、こっちのことが分かってもらって嬉しかった。 自覚 私はイタリア語が好きだったので勉強は全然苦にならなかった。しかし、理解する能力がみんなより著しく劣っていることを分かってはいたが、だんだん自覚するようになってきた。のんきでマイペースでいい加減な性格にも焦りを感じ、せめて復習だけでもしっかりやらなくてはこれから先の授業は、全くわからなくなるかも知れないと。だから、気持ちを絶対に切り替えなければならなかった。毎日ラジオを聞き、イタリア人の会話に慣れ、そして、少しずつでも確実に単語を覚えていかなければならなかった。 街角 ガールフレンドの「知美」はフィレンツェの街で起こったニュースや暮らしの情報に精通していた。特にレストランやブランドの店、街角のバール(日本で言えば喫茶と雑貨を兼ねている店。しかし、テーブルのイスに座ってゆっくりコーヒーでも飲むと必ず1ユーロの席料を取られるのでいつもカウンターでカプチーノを飲んでいた)等は詳しかった。
安くて、おいしいピザ屋を紹介してくれたり、バールでカプチーノを一緒に飲んだり。また、日本人の若い留学生達のアパートでのパーティーに連れていってくれたり。彼女のおかげでフィレンツェでの生活は本当に楽しかった。今でも心から感謝している。また、彼女にはイタリア人の愛するボーイフレンドがいたので今頃はきっと、フィレンツェで幸せな毎日を送っていることと思う。これからの彼女の人生に幸多かれと祈らずにはいられない。 彼女のアパート ブラジルの女子学生レナータが帰国することになり、彼女はクラスメート全員に感謝をこめるため、パーティーを開いてくれた。みんな彼女のアパートに招待され、6月の初夏の夜を楽しく過ごすことになった。アパートはフィレンツェの象徴「ドーモ」から歩いて10分。世界最古のウッフィツィ美術館から歩いて5分。街の中心地にあった。 階段 私はホームスティから自転車を借り、30分はかかる彼女のアパートに向かった。たぶん、帰るのは午前さまになると思い、タクシー代を節約するためそして、運動不足を補うため考え抜いたサイクリング利用だ。彼女はアパートの3階に住んでいた。建物は相当に古く、4百年は経っているとのことだった。照明は昭和30年代の子供の頃を思い出させるような暗さで、その上、階段の幅は75センチぐらいと非常に狭く、1段1段が高いのには本当に驚いた。こんな階段があるのかと想像も出来なかった。まだまだ若いと思っていたのにだんだん息が切れてきた。彼女は毎日、この階段を使って学校に来ていたのかと改めて感心した。
みんな集まってきた。そして、クラスメートの全員がそろった。食器の準備をしたり、飾りつけを直したり、学校の話や、自分の国のことをしゃべったりしてそれぞれ楽しそうにしている。いい雰囲気だ。アメリカ人男女2人、イギリス人男性1人、ドイツ人男女2人、メキシコ人男性1人。日本人男女2人。ブラジル人女性1人。 ドイツ人女性のスージーはテラミスをつくっている。ブラジル人女性のレナータは郷土料理を作っているようだ。2人共張り切っている。彼女の手料理が出来て、テーブルにたくさん並んだ。初めて見る珍しい料理ばかりで、南国らしく、それぞれに香辛料の匂いが効いて、色あいがきれいだ。早く食べたくなってきた。 思い出 ブラジル人女性レナータとの思い出は「イタリア語会話」での授業が印象に残っている。座っていた席の隣同士でショピングをしている「店の人」と「お客さん」の役の会話をすることになった。店は靴屋の設定で、文法による正確なイタリア語を話さなければならない。私はお客になって自分の要望をはっきり店の人に告げ、靴を選ぶ役だ。自分の願望を表現する語彙は唯一知っていた。しかし、会話なので相手から話し掛けられたら、正確にイタリア語で返答することは出来なかった。私には絶対無理だった。 むずかしい とてもこのカリキュラムはむずかしかった。しかし、彼女は私の分のせりふまでイタリア語で書いてくれて、私に「これを読め」と言っている。イタリア語はローマ字なので意味はわからないが、大体読めるのがうれしい。さりげなく、それらしく読むのに汗を掻きながら、強弱をいれてそれを読み、彼女と会話をした。終わってから先生は「ベーネ、ベーネ」と褒めてくれたが「急にヒロシは会話が上手くなったようね」と言うような少し、けげんな顔をしていた。私は彼女と顔を見合わせ、作戦が成功したことに笑顔で感謝を表わした。彼女も、もちろん笑顔で応えてくれた。 乾杯 料理が揃ったところで赤ワインで乾杯。イタリア語で乾杯は「チンチン」と言う。日本人はあまり大きな声では言えないかも知れない。みんな赤ワインや白ワインを持参していたので彼女の作ったブラジル料理を食べながら、「ボーノ、ボーノ」(日本語でおいしい)の連発。20帖は十分あろうかと思われる部屋も次第に狭く感じてきた。みんなそれぞれに、しゃべりまくっているのでかなり賑やかだ。なぜか、英語とイタリア語が入り乱れている。
イギリス人のベンは私に英語で話しかけてきた。イタリア語の習得にフィレンツェにきているのにだ。「イタリア語を使ってもらいたいなあ。」という顔をこちらはする。しかし、よく考えてみると私は英語はもちろんイタリア語も全然出来なかったのに気付いた。彼とは同じ教室で勉強していたので私の語学力を配慮しての思いやりだったのだろう。クラスでの彼はユーモアに溢れ、おもしろかった。 オカマ 「今居るステイ先に20代の男の子供がいるのはいいけど、どうも「オカマ」ぽくって少し、困っているんだ」と、よくみんなに話していた。教室では隣になったことはなかったけど、私の朝の挨拶にはいつも「ひろしさん」の「さん」付けをして挨拶してくれた。外国人に「さん」付けの日本語で呼ばれるのは初めてのことだったので、私は本当に驚いてしまった。後先彼だけだった。どうしてこの表現を知っているのか、一度聞かなければならない。 勘 誰とでもそうだが、彼との会話には、ほとんど「カン」の世界に頼るしかなかった。聞いていると1つか2つぐらいは必ず知っている単語が出てくる。私にはそれを瞬時に分析とは大げさだが、大体の相手の言うところを理解する感覚が少しづつ形成されていた。だから、いつも落ち着いて、相手の顔を見ながら笑顔で聞いていた。はたから見ている人には相当に外国語が出来る日本人に見えたかも知れない。全然出来ないのに格好だけはいいのだからほんとうに困ってしまう。 お気に入り 彼との会話には適当な、知っている簡単な単語とジェスチャーを組み合わせる方法で大体話しは通じた。彼はキャノンのデジタル一眼レフE0Sでみんなのスナップ写真を撮っていた。私は「これはかなりの高級品で日本でも最高に高いし、ダントツの人気がある」と適当に言った。すると彼は、イギリスで「600ユーロで購入、とても気にいっている。本当にすばらしい。だから、交換レンズも全部買った」と話してくれた。私は「日本のカメラはもちろん最高さ」と偉そうに自慢してしまった。トスカーナ産の赤ワインを飲み過ぎて、つい態度が大きくなってきていた。 興味 パーティーも2時間近くなると、それぞれの国の話しがでてくる。ここはヨーロッパなので遠くから来ている東洋人は私と「知美」の2人しかいない。日本のことに興味があるのだろう、私に「日本のことを話せ」と言っている。 すし みんなが「スシ」「サケ」と言い出したので「スシ」の握り方、そしてわさびを入れるジェスチャーをして見せた。わさびのことはだれも知らないと思っていたが、メキシコ人の男性ロドリゴだけが日本語で「ワサビ」と言った。私は彼の物知りに感心した。彼は授業の前にはいつも分厚い本(自国のスペイン語)を読んでいたり、イタリアの新聞も読んでいたりしていた。他のヨーロッパの生徒に較べて真面目な授業態度には、みんな一目置いていた。
パーティーは最高潮に達し、ワインも10本は空けていた。イギリス人のベンも絶好調だ。そして、みんなに合気道の格好をして見せた。本当に日本の合気道知っているの? 私は「知美」と顔を見合わせた。どうして知っているのと「知美」が聞いている。彼はイギリスのマンチェスターの道場で1年間習ったということだった。だから、日本の礼儀を知り、私の名前を「さん付け」で呼んでいたのだった。そして、私を見て、趣味を聞いてきた。 一気に 私が一番年配だし、また、興味のある日本人だったこともあって、よく私に聞いてくる。もうこうなったら英語もイタリア語も関係ない。出る言葉が相当いい加減だが仕方ない。知らないのだから。喋っている私の言葉がよく分からないのか、みんな必死に理解しようと真剣な顔で聞いている。時々友人の可愛い日本女性の「知美」になんのことか聞いているようだ。「知美」も解説するのに苦労している様子だ。座を白けさせたらいけないので私は気を使い、話しを一気につづけた。ここまで来たらやるしかない。 バイク 16歳の若い時からモーターサイクル(オートバイ)に乗っている。毎年、ツーリングもよく行っている。オートバイは昔から好きだと。すると、「オートバイは何に乗っているのか? ホンダか?」と聞くので「もちろんホンダだ。もう4台は乗ってきた。20代の頃はよく飛ばして、白バイに捕まったこともあった」と話し、この時はみんなによく分かってもらうため、バイクの音や白バイに追跡されたサイレンの音を口で再現して見せた。そしてバイクにまたがって前のめりで飛ばしている格好を見せる。みんな笑って「オォ〜ヒロシ」「オォ〜ポリス、ノー」と例の両手を上げてのポーズだ。 アメリカ人 私の適当な言語も何とかみんなに通じているのが嬉しかった。「今はアメリカ製のハレーダビットソンに20年乗っている」と言ったら、アメリカ人の男性(名前は忘れてしまった。歯科医で、もの静かな人だった。彼も来月アメリカへ帰国する予定だ)が「オー」とびっくりして、嬉しそうに私に握手を求めてきた。 |
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掲載日:2006年11月24日 |