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高木さんのイタリア遊学記
フィレンツェの道
ドーモ展望台からのフィレンツェ眺望
退職
 人生は本当にわからない。私は退職を決意し、辞表を提出した。まもなく、54才になろうとしていた。近年の景気下降により、決算は大幅な赤字を計上。当然のごとく、深刻な経営危機に陥り、事業の見直し、部門の縮小、人件費の削減となり厳しい環境が始まった。笑いの絶えなかった職場はそれ以来大きく変わってしまった。

 その後はお決まりの希望退職の募集。団塊の世代を対象にしていることは充分承知をしていた。「このあたりが潮時か?」定年まであと6年は残していたが、去ることを決心した。小学生の頃、母に連れられて「喜びも悲しみも幾く年月」の映画を見に行ったことがあった。

 そして、30年のサラリーマン生活。それがなぜ、今、思い出されたのだろう?あっと言う間の年月だったが、比べようもないその映画に自分を重ね、何かしら、少し感傷的な気持ちになってしまった。

 この年になったら辞め、次はこれをと事前に計画していた訳ではない。予期せぬ出来事は、ある日突然やって来る。万物の神である天と地の大法則には妥協がない。その時、憂うることは絶対禁物だ。決して心配したり、悲しんではならない。視点を変え、陽気に一歩を踏み出すことが必要だろう。あくまでも自然流が一番いい。意外と何とかなるものだ。

現実
 私は辞表提出後、将来のことを考えた。小説でいつか読んだあの言葉が毎日、毎日浮かんでは消えた。「これからいかに生きるべきか」この普遍的な哲学の言葉と響きは全ての人間に共通する。今の私にはこれ程、身近に感じ、真剣に問われたのは生まれて初めてのことだった。家族、親戚のだれもがすぐに第2の人生の出発を期待し、新たな職場への門出を待っていたのは間違いなかった。

フィレンツェ、ポンテベッキオ橋
決意
 私が考え抜いた結論はその思いを見事に裏切ってしまった。身近な人に胸の内を話した。「外国に行って見たい」。「まだ見知らぬ国や街を見てみたい」。「たくさんの国の人達と話してみたい」。「外国の文化、習慣を肌で感じたい」。

 まだまだ、たくさんあった。体験したり、見聞することは若ければ若い程いいと思っている。この夢を実現するためには今をおいてない。自由の身でいるこの機会しかない。絶対に今しかないのだ。

 だれもがそれを聞いて驚いた。当然のことだった。「何を考えているの?」「冗談はやめなさい」「気は確か?」「1人ではないでしょう?」「本気?」とみんなが心配してくれたり、親身になって忠告してくれたり、本当にありがたかった。

 しかし、私の決意はそれでも変わらなかった。多くの人は行きたくても、それぞれの事情で行けない。まして、長期間にわたる滞在など簡単に出来るものではない。自由人である私はその点、恵まれていた。そして、その思いは段々と大きく、強いものになっていった。

思い出
 高校へ上がる時、お祝いに買ってもらった自転車(当時29,000円の10段変速ナショナル製、おまけの電気鉛筆削り機はまだ動いている)で生まれ故郷の南島原市の口之津町を往復した。当時はまだ、舗装していない道が大半で坂道がきつく、片道5時間半かかったことを憶えている。そして、20代は好きな中古車を雑誌で予約、東京まで列車で行き、帰りはその車を運転し、長崎へ帰った。

フィレンツェの夜景
 また、バイクが好きで友人と2台で中国、山陰を下り、四国を一周、さらに10年後にはまた、2台で新潟まで往復した。完成したばかりの北陸自動車道では朝早く(5時頃)長距離トラックの運転手と話しながら、並んで走ったこともあった。

 今思えば危険きわまりない夢のような本当の話だ。旅をすれば必ず多くの人との出会いがあり、学ぶ所が多い。本当に楽しいし、生きていることを実感する。そして、いつしか、旅の経験は何よりも自分を成長させるものだと、気付いていくようになった。

ビザの申請
 90日以上、イタリアに滞在する場合はビザの申請をしなければならない。たくさんの書類提出が記載されている。欧州には不法滞在が多く、イタリアも厳しい渡航の審査と制限を課している。申請は東京の大使館と大阪の総領事館の2ヶ所で受付しており、長崎県は西日本を管轄している大阪になる。

 ホームページで必要書類を調べ、申請用紙をコピーする。学校の入学許可書、滞在先の住所、滞在中の生活費を証明する預金通帳のコピーと結構うるさい。書類を揃え、大阪へ向かった。旅費を節約するため夜行バスでの往復だ。大阪イタリア総領事館はJR京橋駅から徒歩5分。ツイン21のMIDタワーの31階に入っており、目の前に大阪城が見える。8時半頃、領事館に到着したが早いのでまだ誰もいない。9時半からの受付まで1時間もある。

 シャッターが開き、受付が始まった。1番目だ。後ろには若い男女が一人ずつ並んでいる。日本人の若い女性による提出書類のチェックが始まった。何回も書類の漏れがないか確認して来たので、不備はないはずだ。(長崎からはそう何回も来れない)

 彼女からいろいろと渡航の理由を聞かれた。また、申請書類の記載の中で英語のスペルが間違っていたのを指摘され、あわてて訂正したりした。彼女の質問は鋭く、そして、前面総ガラス張り(下に1cmぐらい書類が入るくらい開いている)から聞こえる声は小さく、よく聞き聞き取とれない私は緊張の連続だった。

フィレンツェ、ウッフィッ美術館広場
 何とか書類はパスしたようで、1階にあるコンビニで返信用の封筒とビル内にある郵便局で切手を買うように言われた。時間にして10〜12分ぐらいだったと思う。私はこれで終わったと嬉しくなったが、彼女には終始笑顔がなかった。無理もない。毎日、毎日こんな申請書類の審査をしていたら笑うこともないのかも知れない。少し、同情した。

上司
 夜行バスの時刻までゆっくり時間がある。大阪駅、梅田界隈を見物した。ビザの申請も無事に終わったし、ゆっくりしている時、携帯電話が鳴った。元職場の北島部長からだった。大阪にいることは知らないはずだ。

 いろいろと心配の電話だったように思う。上司でもあり、大先輩でもあったので当時は公私共に大変お世話になった。最後の職場でいい上司に恵まれて私は幸せだった。温厚で誠実な人柄は職員みんなから慕われていたし、誰よりも思いやりがあった。

 私はその全てに足元にも及ばなかったが、一つだけ自信を持って大きな声で言えることがあった。それは若いだけあって髪が多かった。散髪する時などかなり、髪を透いていた。「どうしてこんなに髪の毛が多いのだろう?」翌日、朝の挨拶と同時にそのことを話すと、いつも明るい部長が冷静さと理性を失い、何となく悲しげな顔になっていった。どうしてだろう?全然わからなかった。

 最近の異常気象により、ますます陽射しが強くなって来ている。暑いからと言ってくれぐれも優しい奥様の花柄の日傘など差して歩かないで欲しい。彼岸はもうそこまで来ている。人生の後半は名誉を大事にしてほしい。

イタリア語
 昔から古い中世の街並みが残る国へ行きたかった。ヨーロッパの国々は特に歴史があり、文化、芸術が高い。そして美しい。結論はすぐに出た。「イタリアのフィレンツェに行ってみよう!」「この中世のままの芸術に溢れるフィレンツェの街しかない」。不安はあったが未知の世界に飛び込む好奇心の方が遥かにそれを超えていた。

フィレンツェ、レプップリカ(共和国)広場
 イタリアに行くため、イタリア語の勉強を開始した。それはフィレンツェの語学学校に通うための勉強であり、現地で生活するための必要最低限のことでもあった。NHKラジオのイタリア語講座を聞いていたが、なかなか決められた通りのページを理解・消化しきれない。そのうえ、翌日には覚えた単語をきれいに忘れている。どうしようもない頭の悪さだ。今日までよくこれで社会生活が出来たものだと妙な所で感心する。

 日が経つにつれ、少し焦ってきた。イタリア語の仕組みと動詞の活用形だけでも理解しなければならない。そうしないとフィレンツェでの学校の授業にはとてもついていけない。遠い外国にまで来て生活する以上、高い志は持っていた。そして、幾つかの目的も持っていた。だから、その実現のためにはイタリア語は必須なのだ。

語学学校
 インターネットのホームページでかなり検索し、レオナルドダビンチ校に決定した。どの学校も充分過ぎる程の紹介が載っており、大差がないように思えた。私の能力では長期の学習コースが必要だ。だから10〜11ヶ月の最大コースを探した。また、「日本人のスタッフがいれば申し分ないのだがなあ」と勝手に思い、絞り込んだ数校に質問のメールを出した。 

 レオナルド校はその回答に群を抜いていた。授業の内容、コースの種類・授業料、ホームスティの内容等さらに詳しく聞いた。日本語による回答は速く、適切だった。聞いてみると「ちか」さんと言う日本人女性が対応していた。なるほどと納得する。彼女にメールを打って聞くこと10数回。必ず翌日にはイタリアのフィレンツェ校から返信が来ていた。私はレオナルド校にすべてを託した。

掲載日:2006年8月23日

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