瑞穂の国
この言葉は、私の学生の頃、先生から「日本は、昔から瑞穂の国と呼ばれいる。瑞穂とは,みずみずしい稲穂のことで、日本を讃えていることばでもある。大村(当時)も美田が多い。農業は本当に大事な産業だ」みたいな話しを何回か聞きました。
私が通った小学校、中学校、高校まわりは、当時多くの美田があり、夏はそれこそみずみずしい稲穂の波でした。今は、工業化、農家の後継者不足、その他の理由で次々と農地から工業地や宅地に転用され、風景さえもいっぺんしてしまいました。
私も農家の出身ですから、田植え、稲刈りなどの農繁期には、家族・隣近所・親戚総出で田んぼに入っていました。また、(大村弁で)「いけどき」(休憩時間)の時、あぜ道で雑談しながらの食事は、忘れがたく楽しいものでした。それに自分で植えた最初弱々しい黄緑の稲が、日を増すごとに段々と力強い濃い緑に変るのを見るとたくましさえ感じ、黄金色の季節には子どもながら、このまま台風など来なかったらいいなあとも思っていました。
さらに、日本では米にまつわる言葉として、新入りのことを「新米」と言ったり、あるいは独身男性などに対し「そろそろ年貢の納め時では」などと、日常生活に密着した米にまつわる言葉も多いです。中には「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」など、自分ではできないことを棚に上げながらも、どこかの偉い方々に聞かせてやりたい言葉もあります。
このように日本人は、弥生時代の頃から2千年くらい米を単なる食料だけでなく、貨幣や税金の替わり、あるいは日常生活でも本当に大事にしてきた歴史があると私は思います。私自身子供の頃、亡くなった父が獲れたての米を神棚に神妙な顔で、柏手(かしわて)打って上げているのを見た覚えがあります。
日本と英国との穀物自給率の対比表(右側は年が違います) |
日本 |
1961年は、76% |
1998年は、28% |
英国 |
1961年は、53% |
1996年は、130% |
また、日本は2千年くらい穀物類を大凶作や戦後の混乱期などのほんの一部を除けば、完全自給自足できたと思われます。
それが、戦後わすかの期間に大きく様変わりしたような気がします。そのことは、別表の数字で明らかになっている通り、1960年(昭和35年)以前までは、まあ、なんとか80%くらいは自給できたのでした。逆に、イギリスは、当時は別表でも分る通り、自国では大きく不足して、穀物輸入に頼っていました。それが、日本とイギリスの穀物自給率の対比は、全く逆転して、近年日本は30%以下に落ち込み、世界で132番目、サミット参加国で最低を続けています。
人口一億人以上の国の穀物自給率 |
国名 |
人口 |
穀物自給率 |
中国 |
12億人 |
94% |
インド |
10億人 |
100% |
アメリカ合衆国 |
2.7億人 |
138% |
インドネシア |
2億人 |
91% |
ブラジル |
1.6億人 |
85% |
ロシア |
1.5億人 |
93% |
パキスタン |
1.4億人 |
104% |
日本 |
1.3億人 |
28% |
バングラディシュ |
1.2億人 |
89% |
ナイジェリア |
1.2億人 |
94% |
(1998年、農業白書附属統計表より)
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このようになった原因は(単純ではないものの)主に減反政策や米の輸入などがあります。さらにはオレンジ、その他の農産物の輸入自由化や過重な減反政策などにより、ただでさえ苦しい農業収入に大打撃を与え、その結果離農が続き、後継者不足に拍車をかけ、結果ますます生産者が少なくなり、国民の主食である穀物類が自国だけでは自給できないところまで追い込まれているのです。
このように現在では、「瑞穂の国」の名前が泣いている、あるいは、この美しい名前自体を自称できないほど深刻な事態になっているとさえ思えます
ただ、別表の(同じ先進国で農業政策の転換により穀物自給率を高めた)イギリスの例でも分る通り、もしもこの日本で早期に農業政策や農産物輸入などの問題を根本的変えれば、まだ穀物自給率を高めることは可能性として残っているのではと思います。
とりわけ、これ以上生産者に過重の負担を強いる農政ではなく、農業でも充分生活のできる=離農しなくてもいい施策が本当に急務です。
世界中で食料危機や食糧安保などが叫ばれる現在、この穀物自給率の向上は、避けて通れない大きな課題だと私は思います。元々2000有余年の瑞穂の国、それがここまで悪くなったのは、現在の政治そのものから来ていると思います。
明日の天気はなかなか人間の手では変えられませんが、このような国民の食料さえも、いつ何時危機に瀕するか分らないヒドイ政治は、かなりの時間かかったとしても変えることは可能ではないでしょうか。「瑞穂の国」の名前が泣くような政治ではなく、名実共にこの名に恥じない日本になればなあと思います。
ひと一人の出来ることは限られてはいますが、私もいずれ父が残してくれた田畑に穀物か野菜か、何かを植えて、自ら再度実りのある作物を手にしたいと今から考えています。(記:2003年6月20日)
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