昨日今日とは思はざりしを
この言葉は、平安時代の『古今和歌集』におさめらた在原業平(ありはらの なりひら)の歌です。 全文は、「 つひにゆく道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」です。その意味を私は高校時代の先生に教えてもらいました。 概要次の<>内の通りだったと思います。<人間なら誰でも、全ての人が必ず最後は行くべき死出の旅路と、かねてより聞いてはいたけれども、昨日今日と言う急な話とは思わなかった>
先生(既に故人)は国語や古典を私たちに教えておられ、この在原業平のことを教える時、ちょっと笑いながら 「この業平は女性に、もてて仕方なかった。まあ、現代風に言うなら”平安時代のプレーボーイ”というところだなあ」、「この歌は、自由にずっと生きてプレーボーイ過ぎたためか 自分の死期が近づいていること知らず、けっこうノンビリしていたんだなあ」、「でも、こんな予想もつかない最後も、いいかもしれんなあ」みたいなことを授業中に言っておられました。
話は脇道にそれますが、このことを教えて頂いた先生は、私が現在、趣味で興味がある郷土史で大村の歴史関係の本を見ますと、良くお名前が記載されている方と10年ほど前に知りました。 そんなことなら、生前にもっと真面目に郷土史の分野も聞いておけば良かったなあと反省しきりですが、勉強嫌いの自分には出来ないことでした。
何十億年という地球の成り立ちからや、何十万年かの人類の歴史から話せば、ややオーバーなことかもしれませんが、いずれにしても、それらに比べれば人は例え人生100年の長寿としても 瞬きにもならない一瞬でしょう。
人はそれぞれの生き方、死に方があるため、多くの哲学者や文化人などが、無限大のごとく人生論を語り、書物などに書いておられます。どんな自由な生き方をされる方でも、家族、友人、親戚などの死に立ち会い、あるいは何らかの別の機会に、これらのことを熟考されることがあったからでしょう。
私は今年に入り、ある方から「人間生まれながらにして、二つだけ全員に公平なものがある。それは一つが”時間”で、二つ目が”死”だ」と教えて頂きました。どんな大金持ちの権力者でも、私のような何もないような貧乏人でも言われてみれば、それは等しくあるものだと納得しました。
また、今回のような辞世の言葉も、古今東西、教科書に載っているような有名な、偉大な方含めて沢山あって本にもなるくらいです。 さすが先人の達観した奥の深い含蓄あるものが多いですが、私は、この在原業平の歌に憧れます。
人は誰でも高齢者になれば最後まで無病息災とか元気そのものとはいかないまでも、ずっと、そこそこ健康で美味しく何でも食べれて熟睡し、幸せな家族、近所、親戚や友人とも楽しく会話できるような体を持ち続けて、あっと言う間もなく旅立てるのは、 ある種理想的かなあとも思えます。
そうは言っても直ぐに、この旅路が来てもらっては山ほどやりたいことがある自分としては困ります。いずれ、何十年後かに在原業平の歌の通りを迎えることになったとしても、そこまでは(本人はやりたくなくても)様々な努力とか修行とか必要なのでしょう。