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(写真1)  アムステルダムの王宮、(手前側は)ダム広場

アムステルダム市内観光その3

2013年12月26日(オランダ時間)
 前ページには、本格的にアムステルダム市内見学を開始したことを書きました。それは、主にアムステルダム中央駅と、 ダムラク(Damraku)通りのクリスマス市などでした。

 今回のページは、その続きで主にアムステルダムの王宮、ダム広場、国立モニュメント、百貨店のカフェテリアでの昼食、ルーキン通り、 ウィルヘルミナ女王騎馬像や運河沿いの散策などを書いています。

アムステルダムの王宮とダム広場
 賑やかなダムラク通りのクリスマス市から、少しだけ解放されて散策を続けていますと、進行方向右手(西側)に再び賑やかな所が出てきました。そこは、この都市の中心地というべきダム広場(DE Dam)でした。私達は、その広場前の通りの反対側から、その喧騒(けんそう)を眺めていましたので詳細は見えませんでした。

 ただ、黒山の人混みの間から見える光景からして、大道芸人が何か演じているようでした。たまに、「ワアッ〜」とか「ヤ〜」みたいな歓声もしていましたので、芸人の演技に対する観客の掛け声だったのでしょう。(写真1)参照

 そのダム広場の奥側にアムステルダムの王宮がありました。この王宮の紹介文として、「オランダ政府観光局の公式サイト」の「アムステルダムの王宮( Koninklijk Paleis Amsterdam)」ページが分かりやすいと思います。そのページには、下記<>内のことが書かれてあります。
(写真2)  アムステルダムのバイエルンコフ百貨店
(写真3)  傾いている建物(3棟が左へ傾き)
(写真4)  ウィルヘルミナ女王騎馬像
(写真5)  クルーズ船の発着場

 < 王宮は、アムステルダムの心臓部であるダム広場に位置します。 現在王家が使用している3つの王宮のひとつです。 この王宮は、ウィレム=アレクサンダー王の住居ではなく、国賓などの重要なゲストを招く迎賓館として使われています。 王宮の歴史 350年前、この建築はアムステルダム市庁舎として建設されました。

 1808年にナポレオン・ボナパルトが居城に転身させて以来そのまま王宮として使われています。しかし邸内に一歩足を踏み入れると、今でも建物本来の機能を見て取ることができます。 王宮は、通常一般公開をしています。大理石の床や豪華な絵画、精密な彫像、荘厳なシャンデリアのほか、定期展示会も見応えがあります。  >


 上記説明文でもお分かりの通り、通常、オランダ王室の住居ではなく、他国からの国賓など招く迎賓館としての役割のようです。ただし、元々は市庁舎だったようなので、外観だけの印象ならば豪華とか華麗とかの表現は、なじまないような感じでした。

 まあ、どちらかと言うと、ガッチリ、ドッシリした建物のように見えました。ただし、私達は時間の都合上、建物内の見学はしていませんが、ガイドブックなどを見ますと、内部はシャンデリアの輝きを始め、各調度品や全体の造りも良いとのことのようでした。

バイエンコルフ百貨店内で昼食
 ダム広場と反対側(東側)には、何かオベリスクにも似た塔みたいなものがありました。これは、国立モニュメントと呼ばれ、様々な行事だけでなく待ち合わせの場所にも使われているとのことでした。お腹もすいてきていたので、とりあえず百貨店バイエルンコフ(de Bijenkorf)の中に何かあるかもしれないということで、陳列商品も見ながら少し店内をウロウロしていました。(写真2) 参照

  すると、百貨店の奥と言いますか、北側にカフェテリアがありました。「ここにしよう」と言うことなりましたが、13時過ぎですからマダマダ人が多く私達も列に並ぶことにしました。少しづつ進みましたので段々と雰囲気が分かってきましたが、サラダ、サンドウィッチ、パン類や、ジュースなど飲み物類を各自で自由に選んで皿などに載せて運び清算していく方法でした。

  3人とも別々のものをとり、外側の席から少し離れテーブルに空きが出たので、早速そこを確保しながら食べることにしました。私もサンドウィッチとカプチーノを選んだのですが、まあまあの味だったでしょうか。一人平均千数百円でしたので、この食事内容では割高だったかなあとも思いました。

 ゆっくりと食べながら、これから散策するコースや、機会あればお土産も買いたいなあなどの話もしていました。このカフェテリアを出て、百貨店内を少しウロウロしましたが、私のような田舎者にとって商品の料金含めて目がクラクラしそうで、早目に店外に出ることにしました。

傾いた建物
 バイエルンコフ百貨店を出てからダム広場を経て、私達はルーキン(Rokin)通りをずっと南下していました。しばらくしましたら、通りの左右側ともに、いくつかの建物が傾いているのが分かりました。(写真3)参照

  この写真に写っている、中央部の二つと、その右側でやや茶色にも見えるビルは、明らかに左側に傾いているのが見えると思います。念のため、この傾きは広角レンズ撮影時に、両端側の建物がまるで少しだけ傾いた感じに撮れますが、今回の場合、そのことと違います。

 「元々は湿地帯に建てられたので、こんなになっているのかなあ?」と話しかけますと、「不当沈下が原因やろうね。他のビルへも影響を与えてるのでは」などと、話が続きました。そして、その後も、「あそこもある」、「運河の反対側にもある」みたいな感じで、けっこう傾いている建物は多かったようです。

 ただし、今でも現役バリバリで使われているのか、はたまた使用不可なのかまでは分かりませんでした。昔の人は、「水の都」ベネティアでも、ここアムステルダムでも、湿地帯に建物を建てる場合は、何百年経っても腐らない松の木を地面(水面)下に、何十何百本あるいは市全体では何十万本も打ち込んでいると聞いたことがありました。

 そのような工法を用いても、やはり不当沈下は起きているようでした。そのため、元に戻すための改良工事をしているビルもあるようで、足場が組まれたり、ネットが張られている建物も、いくつか目につきました。

ウィルヘルミナ女王騎馬像
 ルーキン通りの南下を続けていると、再び運河が見えてきました。その手前側に一見橋の欄干にも見える先端部、馬に横座りの上品な姿で乗った帽子をかぶった黒い騎馬像が見えました。(写真5) 参照 この像は、ウィルヘルミナ女王騎馬像でした。この女王について、日本大百科全書によれば、次の<>内のことが書いてあります。

 < ウィルヘルミナ女王=オランダ女王(在位1890〜1948)。1890年父ウィレム3世の没後王位を継承。母エンマの摂政下に置かれたが、98年アムステルダムの教会で即位式をあげた。1901年メクレンブルク・シュウェーリン公ハインリヒと結婚、09年に王女ユリアナを出産。

立憲君主制のもとで議会を尊重したが、女王の影響力もけっして小さくなく、第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)まで中立政策を堅持、国内的には広範な社会改革に着手した。40〜45年、ドイツの侵入によりロンドンに亡命政権を樹立、ドイツへの抵抗とオランダの自由を説き、オランダ解放後、熱狂的に祖国へ迎えられた。48年ユリアナに位を譲り退位。回想録がある。 


 この像の下側の運河には、天井部にもガラスのはまった船が係留されていました。また、その先の方にも同じような船が何隻かありましたので、ここは運河クルーズ船の一つの発着場ではないかとも思いました。

 さらに、ルーキン通りが運河沿いにも続いていましたので私達はその通りを歩いていましたが、景色はむしろ運河挟んで反対側の建物の並びや雰囲気が良い所でした。「この付近も、なかなか絵になるねえ」と言いながら、さらに南下を続けました。

(掲載日:2015年1月12日)
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(旅行メモ)
2013年12月26日(オランダ時間)
     アムステルダム市内観光(3)

12時30分、ホテルを出てアムステルダム市内見学へ、運河沿い
12時40分、アムステルダム中央駅周辺を撮影
12時45分、ダムラク通りのクリスマス市を見ながら散策
13時00分、アムステルダム王宮、広場、国立モニュメント
13時05分、百貨店のカフェテリアで昼食
13時30分、運河沿いを散策、傾きかけているビルなどに話題
13時40分、運河に掛かる橋の上に騎馬像、ムント塔、花市場、運河風景など
14時20分、アムステルダム国立美術館周辺の運河風景、自転車式発電機など
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