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サンタンジェロ城、スペイン広場など
1996年8月31日その
サンタンジェロ城
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奥:サンタンジェロ城
手前:サンタンジェロ橋
 13時40分頃、昼食を終え、また、参道のコンチリアツィオーネ通りを歩きだしました。段々とサンタンジェロ城が大きく見えてきました。サンタンジェロ城前で、ティヴェレ川の堤防の横に若い外人グループがいました。

 この中の男性が堤防にのけぞり過ぎて頭の上にしていたサングラスをティヴェレ川に落としてしまいました。外国語は分かりませんが「あー、しまった!」「えー、落してしまったの!」みたいな大きな声が上がり、他の方含めて皆何事かと川を覗き込んでいました。

 このサンタンジェロ城は、資料を読むと元々135年ハドリアヌス帝が自分の霊廟として建設したのを、牢獄や城砦などの変遷を経て現在に至っているようでした。丸いお城の上には、聖天使像が見えました。城名の由来は、紀元590年に、グレゴリウス一世がぺストの流行がおさまるようにと、信者の行列を従えて祈祷に行く途中に見た幻によっていると言います。

 それは「
教皇が橋を渡っている時、城塞の上に、大天使ミカエルが現われ、きらきらと輝く剣を鞘におさめる動作を見た。教皇はこれをもって悪疫の終わりをつけ゛たと思い、その場にひれ伏し神に祈った」と言います。このようなことから以降、名前もサンタンジェロ(聖天使)城となりました。また、この城は、サンピエトロ寺院を守る役目があり、いざと言う時には、寺院から地下通路を伝って、この城まで逃げれると以前の旅行時に聞きました。

 あとサンタンジェロ城、サンタンジェロ橋やティヴェレ川言えば一番有名にしたのが、あの映画『ローマの休日』です。アン王女役のオードリー・ヘップバーンが髪を切ってもらった床屋に誘われてテヴェレ川に浮かぶ船上のダンスパーティに来ました。その後は、ダンスあり、乱闘ありしながら最後は川に飛び込むシーンなど、ご存知の通りです。

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奥:サンピエトロ寺院
中央:サンタンジェロ橋
手前:
ティヴェレ川
ローマ三景は撮れず
  テヴェレ川に架かるサンタンジェロを渡ったのですが、この付近は物売りやら工事車輌の往来などで、なかなかいい写真が撮れませんでした。せっかく、橋の上にある彫刻の像など、いい雰囲気で撮れる感じもしたのでしたが、結局は数枚撮っただけで諦めて、ティベレ川沿いにトール・ディ・ノーナ通りを歩きました。

 この通り沿いには木立がいっぱいで、ローマの暑い日差しを避けるにはもってこいの場所でした。木に詳しい義兄の解説によると「日本なら樫の木のようだ」との説明でした。続けて口々から「こん並木道は気持が良かね。穴場ばい」と何回となく声が出ていました。。

 私は、後ろを振り返りながら、いい撮影スポットはないか
どうか盛んに探していました。なぜならサンピエトロ寺院、サンタンジェロ城、サンタンジェロ橋が入った風景は、別名『ローマ三景』とも言われていると、以前旅行した時に私は聞いていました。

 しかし、この時は夕方と方向違いだったため写真が撮れず、今回期待していました。しかし、木立が邪魔したりなどで、結局、この三つが綺麗に入る場所を見つけ切れませんでした。それでウンベルト一世橋が左手に見えた所で、仕方なく撮った写真が上記の写真です。右側木立に全体は隠れていますがサンタンジェロ城の頂上部分の聖天使像だけが、写っています。

 ウンベルト一世橋の先には最高裁判所があり、至る所に彫刻が施され、なかなか格調の高い建物でした。この橋の交差点を渡るとトール・ディ・ノーナ通りはマルツオ通りになりました。並木道はそのまま続き、10分位でカヴール橋に出ました。ここの交差点からはトマセリ通りになりますが、私たちはアウグストゥス帝廟を見るために右に折れました。

 通りを渡ると二つの教会らしき建物が見えてきました。「ここら付近にアウグストゥス帝廟があるはずだが。この教会の裏側かな?」と見ましたが、それらしき物がありませんでした。「まあ、いいか、お墓だから。先に行こう」と言いながら、5分も歩かない内にサンカルロ・アル・コルソ教会が見えてきました。その横の通りの透き間から、入口に階段の付いた丸い小山のような遺跡が目に止まり「アッ、あれがアウグストゥスの帝廟じゃないかな」と言いました。

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コンドッティ通り
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カフェ・グレコ
コンドッティ通りとカフェ・グレコ
 しばらく、通りを歩くと五叉路の交差点に出てきました。「タカちゃん、地図で確認して、コンドッティ通りはどこ?」「あの方向」「間違いないね」と、昨日道を間違えたので少し神経質に聞いていまた。

 
コンドッティ通りはガイドブックに「日本なら銀座みたいな通り」と書いてあったので、その先入観を持っていました。しかし、実際には幅10メートルないような通りで、両端には横並びのビルのため狭く感じましたた。しかも、日差しの関係でビル影ができ、通り全体が暗く感じました。

 ただ、人通りは急ににぎやかになり、今までの他の通りとは明らかに違っていました。コンドッティ通りを歩きながら、カメラを構えながら見ると、私でも知っているベネトン、フェラガモ、エルメス、ルイ・ヴィトン、ヴァレンチノなど有名な店が沢山ありました。今は暗いコンドッティ通り奥には、そこだけ南国の陽光がスポットライトのように輝やいた『スペイン階段』が見えてきました。

 『スペイン広場』前近くで通りの終わりかけの所には、超有名なカフェ・グレコがありました。この店の創業は1760年で約200年間世界中から人々が立ち寄り、その中には作家のゲーテ、スタンダール、キーツ、音楽家のメンデルスゾーンなども来ていたそうです。今なら可能性は全くありませんが、このような人が何を飲みながらどんな話をしたのか、聞いてみたいような気がしました。

 私達は、時間の関係で店には入りませんでしたが、店内は古典的な仕様で、店名のカフェ・グレコは「ギリシャ人のカフェ」と言う意味だそうです。まあ、日本ではさしずめ「ギリシャ人の喫茶店」と言うことでしょうか。でも喫茶店なのに、これほど有名で名所になっているのは、やはりローマの老舗だからでしょう。

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スペイン階段 と
トリニタ・ディ・モンティ教会
スペイン広場とバルカッチャの泉
 近くにスポーツ店『フット・ロッカー』があったので、タカちゃんが入りました。その待っている間、コンドッティ通りを行き交う人を眺めると色々な肌の色、民族衣装のような服、ラフあれば制服あり、アクセントの違う言葉など、実に様々でした。中でもサーベルを腰につり下げ、白地に金ボタンの服装の集団は、どこかの国の海軍将兵だと思いました。

 しばらくして、タカちゃんが店から出てきて「日本にはないサッカーのユニフォームを買った」とのことでした。そこから歩くと直ぐにスペイン広場のひときわ賑やかな雑踏の中に入りました。広場中央には、バルカッチャの泉がありました。バルカッチャと言う奇妙な名前の意味は、「老いぼれ舟」とのことでした。

 ここの地域はかなり高い丘にあり、水道の水圧が十分でなく、高く噴き出すタイプの泉ができないので、この低い舟の形にベルニーニの父親が設計したようです。よく見ると通りの地面を丸く大きく掘り下げ、そこに舟がおかれたように見え、上からは水が噴き出し、舟の側面の所どころからも水が出ていて、それを子供たちが飲んでいました。

 私は、」このバルカッチャの泉の写真を撮ろうと、色々周囲をまわってみたのですが、人混みが多いので、チャンスに恵まれず結局撮れませんでした。全景にこだわらずに舟の端っこだけでも写しておけば良かったなあと後で思いました。

 広場上のスペイン階段はかなりの高さなので、テッペンまで登らないで、中程で休憩することにしました。アイスクリームまでは食べませんでしたが、まさしく気分は映画『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン並みでした。世界には多くの階段があるのでしょうが、これほど有名な階段もあまりないだろうなあと思いながら、しばし腰掛けながら周囲を見ていました。

 このスペイン階段後方(背景)には、オベリスク、二つの鍾楼とバロック式のファサードを持つ『トリニタ・ディ・モンティ教会』があり、この階段と良く調和していました。休憩も終わり階段を降りると、広場にはもうお馴染みの赤い車輪の馬車が客待ちしていました。広場先のバヴィーノ通りは真っ直ぐポポロ広場に行けますが、私たちは寄り道をすることにしました。

(旅行メモ)
13:40 昼食後、再び参道のコンチリアツィオーネ通りを歩いた。
13:45 サンタンジェロ城前に着き、サンタンジェロ橋を渡った。
13:50 ティベレ川沿いのトール・ディ・ノーナ通りを歩いた。
14:00 アウグストゥス帝廟が少しだけ見えた。
14:10 コンドッティ通りに入った。
14:20 超有名なカフェ・グレコがあった。
14:25 スペイン広場にはバルカッチャの泉があった。
14:30 スペイン階段で休憩した。
(掲載日:2006年5月20日)

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