この言葉は、私が大阪空港時代(1972年からの1997年まで)終わり頃に聞きました。空港の知人(元客室乗務員)の告別式が行われ、喪主(ご主人:弁護士さん)挨拶の時でした。このご夫婦は、結婚された後、なかなか子供に恵まれなくて、やっと生まれた喜びも大きい頃、奥さんがガンになられました。
ご主人の挨拶によると、ご夫婦で何回も何十回も死期迫る中、それでも何か対応策はないかとか、まだ、1歳にも満たない子供さんの将来のことなどを話し合ったとの紹介がありました。その話しは、参列者の多くの涙をさそっていました。
そのような話しの途中、30何歳かの短い生涯ながらも、一生懸命生きた奥さんを讃えるかのようにご主人が言われたのが、「人は、 どれだけ長く生きたかではなく、どう生きたかが大切だ」との一節でした。(当然、この前後には意義深い話しもありました)
ちなみに、これ以前にもこの言葉は、どこかで聞いたような気がしましたが、いつまでも場面とともに覚えているのは、この時だけです。
いつも明るく元気一杯が唯一の取り柄の私でも、さすがに帰る道では、少ししんみりとなりました。その道すがら、知人や同僚たちとお互いに色々話しかけながら、「さすが弁護士さんやねえ。いい話しを聞いた」みたいなことを言っていたことを覚えています。
私は、この「聞いた言葉」シリーズの他のページにも書きましたが、ひと一人生きるだけでも大事業だと思っています。それにもまして、一生懸命生きるとは、どのようなものかと考え込んでしまいます。
この世に生まれて、学校出て、仕事して、配偶者を得て、子供を授かり育て上げ、さらにその子の成長により、孫ができ、目を細める頃に、定年を迎え、町内会・老人会の活動その他をしながら、お迎えをむかえることが、ひと一人の普通(この普通という言葉は、大変難しいですが)生き方かなと思っています。中には、地位も名誉も得られ、並外れた才能を発揮される方も当然いらっしゃると思います。
私は、上記の中で、「配偶者を得て、子供を授かり育て上げ・・」ということはできていませんので、”半端者”や”半人前”と言われれても、否定はできません。「切った、張った」の生き方まではないにしても、フーテンの寅さんよろしく、休みや暇を見つけては全国各地やヨーロッパまで、ウロウロ、ブラブラしていたことも事実です。
私のような今までの生活は、到底”一生懸命”と、思えません。かといって、なんにもしなくてここまで、あるいはこれからも、生きていけるのかと言うとそうでないことも事実です。ひとは生きるだけでも、最低限「衣・食・住」は必要です。それを得るためには、なんと多くの方の支えと本人の努力が必要か、私でもそのことは実感しています。
結局は、この「どう生きたかが大切だ」と言うことは、ただ漠然とあるいは何も考えないで生きたらだめだと言っているように私は聞こえます。生活、仕事、趣味、遊びその他、自分に応じた何か、計画・目標を持って、日々過ごして精一杯生き抜く、あるいは楽しむことの大切さを説いているようにも思えます。
また、ひとり一人ただ生きていくだけでも、多くの方の支えが必要です。逆に自分自身もその方々にどう応えていくのかも、問いかけている言葉のように思えました。
(記:2002年3月27日)