この言葉は、私が直接聞いたものではなく、ほぼ毎日見ているある個人のホームページ(掲示板)に次のことが書かれていました。(「」内は、原文のまま掲載しています。注:太字は上野がしました)
「大きな勘違い! 『マロのようなええ男を・・・』というくだりに抗議させていただく! 妻の正直な心のウチを述べると、ええ男ではなく、ええおっさんや!君らがマロをええ男と思うのは配偶者のせいではないか?
もしマロが他の人と結婚していたら、すごく心の狭い、いつも愚痴ってるような男になっていたであろう。(1年に50日しか働かない旦那をもった私の身にもなれ!)
それから、ええ女予備軍の女子たちに告ぐ! 『ええ男というのは女が作るものである』
世間を幾ら血眼になって探しても、ええ男なんてものは何処にもいやせんわ!おるのはマシな男だけ。分かったら、愛せる欠点をもった男をじっくりと育てておやり。聖母の心境で・・。 」
私は、まず、この文章を見た時、「うーん、スゴイ」と感じつつ、男としては正直何かほっとする言葉でもありました。また、読めばよむほど味のある文章だなあとも思いました。
男女平等などと叫ばれながらも、女性は、仕事でも家庭でも、社会風習含めて様々な差別・困難さが男性以上にあります。ただ、男には何にもないかと言えば、それはそれで、また色々とあります。
私の知人でも、農業、その他などで家業を継がなければならないため、あるいは両親との同居が前提だったため、お嫁さんをもらいきれずにいる人や、なかなか機会に巡りあえなかったなどとも聞きました。(ただし、全部がぜんぶ、このような条件では当然ありません)
世の中、その人の性格や人柄の良さをもってしても、生活まわりや収入など、早急に解決しきれないことも多く存在しています。そのような状況下、また、結婚相談所のあるベテランの方が、「女性の方が、希望が高くて、強すぎる」とも、テレビで言っていました。
先ほど述べたように、人が生きていく上で様々な、本人の努力も必要ですが、しかし、その範囲を越えて存在する”何か”も、男女別なくあります。人間に”完成したひと”がいない以上、一生足りない分を補っていくために、広くは、地域・社会、狭くは家族(夫婦)の努力も欠かせないことだと思います。もっと平たく言えば、最初から高級装飾品みたいな(完成した)男は、いないということでしょう。
世の中、何でも金を出せば買える、あるいは自分は努力しなくても、欲しいものは他人からでも手に入れたいなどの風潮がある中で、この言葉は、お互いに努力して作り上げていくことの大切さを説いておられるような気がします。(記:2002年6月19日)