鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ
今回のこの言葉について、まずはその意味からです。国語辞典の大辞泉には、次の「」内のことが書いてあります。「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)=<鶏口は小さな団体の長、牛後は大きな団体の従者の意>『鶏口となるも牛後となるなかれ』に同じ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』=<「史記」蘇秦伝から>大きな団体で人のしりについているよりも、小さな団体でも頭(かしら)になるほうがよい。」
この言葉は、現代では例えば中小企業が大企業に吸収合併させられていくか、あるいは小さな会社でもそのまま継続して独自の道を存続するかなどに使われるようです。このこと自体について、どちらがいいのか、会社の経営状況や今後の方針などによって検討する問題でしょうから一概に、どちらがいいとは言えないような気がします。
以前ならば経営基盤などは、中小企業よりも大企業の方が安定していると言われていましたが、今はそのような状況ばかりではないようです。世界的にも名の通った大会社でも明日になったら”経営危機におちいる”とか、いきなり”破産”みたいに言われる場合もあるようです。
また、この言葉はさらに変じて、就職時に中小企業か大企業か、あるいはその後の会社などで出世時に、一流企業で課長クラスになるのか、中小企業で役員クラスを目指すのかみたいにも使われているようです。しかし、似た雰囲気はあるようですが、この言葉の元々の意味から少し違うと思われます。
先の言葉の意味の語源を探してみますと、gooj辞書「新明解四字熟語辞典」には、次の<>内がありました。<鶏口牛後、故事 中国戦国時代、遊説家の蘇秦(そしん)が韓王(かんおう)に、小国とはいえ一国の王として権威を保つのがよく、強大国の秦(しん)に屈して臣下に成り下がってはならないと説いて、韓・魏(ぎ)趙(ちょう)燕(えん)斉(せい)楚(そ)の六国が合従(がっしょう)するのを勧めた故事から。>
この中国戦国時代の各国の王の状況からすれば、強大国の秦の部下に成り下がるよりも、小国と言えども王のままで各国と連携してやっていくべきではないかと書いてあります。つまり、元々の意味では、(王である人)=現在では社長とか代表者でも良いですが、大企業の一部下になるより、小さな会社のままでも、その長の方が、力を発揮できると説いているようです。
話は変わって現代の話です。”モノ作り日本”と呼ばれて久しいですが、戦前戦後のしばらくの間、今みたいな一見”大企業偏重”ばかりの風潮もない頃は、けっこう技術・開発力のあるユニークな会社も多くありました。当然、商品化される製品は、小回りや独創性のない大企業から羨ましがられるようなものまで販売していました。その中には、就業条件も業界内での大手企業よりも良い会社もあり、今ではちょっと考えられないような状況でした。
しかし、それらの技術力欲しさに大企業から合併などを持ちかけられ結果として、いつの間にかその会社名の消失とともに、そこにいた人達も段々と少なくなっていったとも聞きました。色々な状況、様々な環境や人間関係の違いなどから、退職の道を選択されたのかもしれません。また、逆に転機をバネとして活躍された人もいたはずです。
先に書きましたように従来の一般知識で定着してるかに見えるイメージ、例えば”大企業は安定、発展する”みたいなことが、現代は不確実の時代ゆえ、そうではない状況もある以上、今回の語源つまり中国戦国時代と似た雰囲気はあるかもしれません。結局のところ、なかなか難しいことではあるのですが、大企業であろうが、どんな中小企業であろうと自らの技術力、独自性や個性ある力を発揮しないと結局のところ、どこでも埋没してしまうと言うことではないでしょうか。