勝負の極意は負けじと打つべきなり
今回のこの言葉は、私の高校時代に古典の先生から吉田兼好の『徒然草』 (注1)を現代語訳する時に、聞きました。この言葉は『徒然草』の原文ではなく、生徒にも分かりやすくするため先生が解釈した現代語訳の一部です。『徒然草』の第110段に次の「 」が書かれています。
「 双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。 道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。 」
高校時代の先生の言葉を思い出しながら上記を現代語訳すると、次の< >内と思われます。(念のため、あくまでも自己流の素人訳です)
< 双六の達人と言う人に、その手法を聞いてみたところ「勝とうと思って打ってはいけない。負けないようにして打つべきである。どのような手が直ぐに負けてしまうのかを考えて、その方法は使わずに、一目でも(少しでも)遅く負けるような方法を打つべきである」と言っていた。(勝負ごとなどの)道を極めた人の考え方は、自分の修養や国の政治を治める方法も、また同じであろう。 >
先生は、このような現代語訳をした後、「この当時の双六(注2)は、現在子ども遊んでいるような双六と違っている。その連戦連勝の名人(達人)は勝とう勝とうと思って試合するのではなく、負けないように負けないように試合していたと言うことだ。それが秘訣だと兼好法師は書いている。つまり勝負の極意は負けじと打つべきなり」と教えて頂きました。
(注1) 徒然草とは大辞泉によると「『徒然草』は鎌倉時代の随筆。2巻。吉田兼好著。元徳2〜元弘元年(1330〜31)ごろ成立か。随想や見聞などを書きつづった全244段(一説では243段)からなる。無常観に基づく人生観・世相観・風雅思想などがみられ、枕草子とともに随筆文学の双璧(そうへき)とされる。 」
(注1)双六とは大辞泉によると「 二人が盤を隔てて向かい合って座り、交互にさいを振って、出た目の数によって盤上の駒を進め、早く相手の陣に全部入れたものを勝ちとする遊び。インドに起こり、日本には奈良時代に中国から伝来。 」
私は勝負事とか勝ち負けがある意味はっきりしているスポーツなどは縁の遠い者ですから、全て分かっていません。でも、将棋でも何か「勝とう、かとう」と意識すれば、それ以外のことがあまり見えなくなったり、スポーツなどの場合は、余分な力を入れて、りきんだりする場合もあるかもしれません。おかれた条件や相手などの差や違いもあるでしょうが「負けないように、まけないよう」にする方が全体が見えているでしょう。
吉田兼好は、この第110段のまとめで「国を保たん道も、またしかなり」と述べています。まさしく、その通りで目先の、一部の業界や大会社のための利潤追求型政治をおこない、それがあたかも”国策”とか”景気対策”とか称し過去何十年もおこなわれてきましたが、結果はもう皆様ご存知の通りです。(この件については、既に聞いた言葉シリーズ第25回目、『経済=経国済民』に書いています)
『徒然草』は鎌倉時代の1331年頃に成立と言われていますから、約680年も前から吉田兼好は双六名人の言葉を借りながら「個人の生活でも国の政治においても目先のあせりや欲得を慎み、広い視野に立って慎重にことを進めよ。それが結果、勝つ方法だ」と言っているように聞こえます。