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私の雑記帳、その5
登山その1
ふるさとの山、郡岳(826m)
(郷土史の探求と撮影目的で登ってみました)
hana01.gif (109146 バイト) 私は、既に掲載中の「聞いた言葉シリーズ第24回目」の『ふるさとの山に向ひて・・・』に。郡岳(826m)のことは紹介しています。この山に今回2007年5月27日に登山しました。(郡岳の歴史関係含めた概要は、ここからご覧下さい

 そんなに標高は高くはありませんが、私みたいな年齢と常に運動不足の体力には、堪える山には変わりありませんでした。それでも何か目的があれば不思議と「人の倍時間かけても登ってみよう」と思うものです。

 その目的が郷土史関係の探求と、それに使う予定の写真撮影でした。まあ、どなか撮られた写真をeメールなどで頂く方法もない訳ではありませんが、やはり、ここは古代にあった霊山信仰の山の実感を確かめながら、登ってみようと思いました。

 郡岳登山するなら、大村市側からは主に二つ(南登山口コースと西登山口コース)あります。私は、ややゆるやかな登りと言われている南登山口コースを選び、下山は西登山口コースとしました。

 普通の方なら約1時間で登れるのですが、私は写真撮影を口実に倍の時間をかけて、息ゼイゼイ・ハアハアしながら何とか登りきりました。眺望は頂上までありませんでしたが、途中、杉木立、雑木林の中ばかりで空気も良く、ウグイスなどの野鳥の鳴き声も静かな応援歌にも思えて励まされました。

 私は頂上まで、あと二頑張り程度まで来たつもりでしたが、驚いたことがありました。それは炭焼き小屋の石垣跡が、いくつも点在していたことです。「えー、こんな高い所でも炭を作っていたのかあ」と言いながらシャッターを押していました。この炭焼き小屋は、昭和時代のものか、はたまた明治や江戸時代のものか全く分かりませんでした。

hana01.gif (109146 バイト)
郡岳頂上の三角点にて
 それにしても「ここまでなら毎日が登山みたいな所だったろうに」と先人達の苦労や奮闘ぶりが、石垣跡を見ていると、まざまざと伝わってきました。木炭は、現在ガス、電気全盛時代にあって料理そのもの、あるいはエネルギー面や地球環境から見直されていますが、先人たちは色々な意味からして偉かったなあと思いました。

 あと、頂上には約2時間弱でやっと到着しましたが、晴天なれどあいにく黄砂がヒドク、近場は全て見渡せましたが、西彼杵半島(にしそのぎはんとう)や嬉野方面は、かすんで見えた程度でした。

 それでも、まあまあかなと思いながら、頂上のもう一つの目的であった奈良時代初期に開山されたと古文書に記されている太郎岳大権現(郡岳の旧称)の礎石探しをしました。(この太郎岳大権現や礎石などについては、私の別の『福重ホームページ』の「古代の道、福重の修験道」ページをご覧下さい)

 それらしき石もあったので、個人的な推測ながら「ここが礎石跡だったかもしれない」と思いながら周辺写真を撮りました。その後、大村湾側の景色や頂上付近の石を調べていましたら、1名の男性登山者が登ってこられました。しばし、談笑しながら写真も数枚撮って頂きました。

 弁当を食べた後、帰りは西登山口コースで下りました。途中、高さ36mくらいあると言う坊岩(ぼうのいわ)の上から眼下の景色を楽しみました。この”楽しみました”は、私の強がり表現で足がすくみそうな所で、とても直下をのぞき込むのは何秒しかありませんでした。(この坊岩の歴史関係の詳細は、ここからご覧下さい

 あと、または野鳥鳴く林間地帯を落ち葉踏みしめながら、西登山口コースを下りました。こんな感じで久しぶりの登山は終了しましたが、改めて年齢も当然ありますが自家用車ばかり乗っているからか、体力・脚力の衰えを実感しました。

 でも(たとえ倍の登山時間かかっても)「登ったぞう」と言う、ちょっぴり自信も持ちました。郷土史探求と写真撮影の当初目的は達成できたものと今では自己満足しています。それに、ふるさとの山は、いつもいいなあと。

(掲載日:2007年5月29日)

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