無気力、無関心、無責任=三無主義(無感動も加えて四無主義)
この言葉は、国語辞典の大辞泉に次の<>内通り書いてあります。<三無主義=無気力・無関心・無責任の若者気質をさした語。昭和45年(1970)ごろから使われた。これに無感動を加え、四無主義という。> この「1970年ごろ」と言えば私は高校生でしたし、その後卒業して、それから大阪空港での仕事に就きましたので社会人に成り立ての頃でした。
ですから、先輩達から、この種の言葉を私自身けっこう浴びたような覚えがあります。このようなこともあったので最初から言い訳がましくなりますが、私は、田舎から大阪へ出てきて右も左も何も分からない時期で、とにかく仕事を覚えたり、あるいは住んでいた所の周囲とか大阪市内、京都などの関西圏などを知ろうとはしていました。
また、田舎にいた当時に見たこともないような、遊んだこともないような各種の施設も大阪には揃っていていました。例えば映画館の例ですが、私の田舎にも当時ありましたが、大阪には梅田と難波だけでも沢山の映画館数と上映中の内容も多種多様で、休日ごとに一つづつ見たとして全部見るだけでも1カ月以上かかるような気がしていました。ただし、私は安月給この上もない生活で、家計簿上で言う「娯楽費」みたい支出項目に割り当てられる金はなく、ほとんど食費だけのまるで「エンゲル係数100%」みたいなものでした。
あと、この三無主義(後で無感動も加えて四無主義)と言われたり、あるいはその時期の若者指して”しらけ世代”と呼ばれた言葉の起こった背景も書いていきます。それは60年安保闘争と、その後の政治・社会状況と関係あると言われています。私の1960年頃は、小学生ですから実感としては分かっていません。ただ、会社の先輩などに聞いた概要を言いますと、この60年安保闘争は、全国・全国民規模で大きな政治的高揚となり、色々な場所で日常普段に話題になり、多くの方も様々な意思表示をされたそうです。その中心の一つに大学生や若者達もいたとのことでした。
60年安保は結果として、そのような多くの国民や若者の運動通りにはなりませんでした。その後は極簡単に言えば、「何をやっても変わらない。やってもやらなくても一緒。自分が動かなくても世の中は変わらない」みたいな風潮も生まれ同時に、この「無気力、無関心、無責任=三無主義が生まれた」みたいなことを先輩から聞きました。それに経済状況自体も戦後時期から高度経済成長が、 1964年の東京オリンピック前から、さらに進んだ影響も大きかったと思えます。
この先輩の言葉通りだったのか、当時、私自身が(私にも若者世代はあったので))言われる位置にいましたので正しかったのかどうか分かりませんでした。その後は、それなりに思い当たることもあったり、中高年になって田舎に戻り、別の事柄で感じたりと様々でした。今回の三無主義や四無主義は、1970年代以降の若者だけを表す言葉ではないような気もします。
それは、広く一般に、たとえ中高年と呼ばれる世代でもあるのではないでしょうか。私は、自分で言うのも何ですが「豚もおだてりゃ木に登る」の性格の通りですから、色々と田舎でも地域や町内会関係の活動を多く担当もしています。そのほんの一例として、地域起こしの件で既に掲載中の(聞いた言葉シリーズの)「無から有へ」、「鏡効果」などに掲載中です。
あと、この三無主義や四無主義は、ずっと変わらないかと言えば実は、そうでもないような気がしています。何でも、いっぺんに急に変わるものではないのでしょうが、例えば自分の好きな事柄なら感動を覚え、関心持って、気力を発揮して、責任ある行動をされるのではないでしょうか。また、自分に向いた活動なら、寝食忘れて没頭される場合もあるのではないでしょうか。
それらの言葉や行動が、この三無主義の対極にあるような気も私はしています。つまり、何か関心のある事項から徐々にと言う流れです。また、これだけ分業が進んだ社会みたいになっていますから、ある人が得意分野を持っておられれば、そこから何か協力して頂くと言う方法もあるような気がします。車のエンジンと似たようなものでローギヤに入るのが時間かかるのであって、目的さえ合っていれば「急がば回れ」みたいな気もします。
また、何かの行事や活動で呼び掛ける(主催者)側に立つ人から次のようなことも聞いたことがあります。それは、地域などで「あの人にいくら言ってもダメだ」とか「もう、今後は参加の呼び掛けもしないぞ」みたいな言い方です。この件は、私自身も何十回となく経験していますから、充分理解できますが、声掛ける側が言ったり思ったりしたら、逆に自ら「壁」を作ることになるのではないでしょうか。
世の中には、付き合いの状況を示す言い方で、「(あることから)電話一本、挨拶一つ、年賀状一枚、来なくなった」みたいなことも良く聞きます。呼び掛ける側が、そのようにしていけば相手側も、それ以上に思っているのかもしれません。色々な分野で意気高く活動しておられる方にとってささやかなことでも、別の方から見れば、その「ささやかな」ことが評価の全ての場合もあるような気もします。