袖(そで)振り合うも多生(たしょう)の縁(えん)
今回の言葉を国語辞典の大辞泉から引用しますと、次の<>内に書いてある通りです。 <袖振り合うも多生の縁=道で人と袖を触れあうようなちょっとしたことでも、前世からの因縁によるものだ。袖すり合うも多生の縁。 「多生の縁」の「多生」は、仏語で、何度も生まれ変わること。「他生の縁」とも書くが、「多少の縁」と書くのは誤り。>
また、この言葉を英訳したものが、研究社 新和英中辞典に次の通り書いてあります。 Even a chance acquaintance is decreed [preordained] by destiny. この英語の方が、ストレートな表現で分かりやすい文章だなあと感心しつつ、先に進みたいと思っています。
この言葉は、もう50年近くも前になるのでしょうか、私の学生時代頃から何十回となく聞いたことがありました。ただし、その当時、 聞いた私も言われた人も上記の辞典にある”多生”部分を間違って、「多少」との解釈だったと思います。この”多生”と「多少」の大違いを知ったのは近年になってのことでしたから、我ながら間違いも甚だしいなあと反省もしています。
ただ、「多少」と私に間違って教えて下さった方々も、解釈上そんなヒドイ意味ではなかったと思います。例えば「街中や旅先で偶然知らない人から道を尋ねられたとか、そのようなささやかなことでも丁寧に応対していれば、何かの縁があって良くして下さる場合もあるからね」みたいな意味だったと思います。
つまり、「ささやかなことからの人の付き合いでも大事に接していれば、他の方々も同じように接して下さる」みたいな解釈だったと思います。ただ、文字そのものや、その文字の真意からすれば辞典の通り「多少」は間違いです。正しい”多生”の方は、それはそれは奥深い意味があるようです。 先の辞典には「前世からの因縁によるもの」と解説してあります。
ここで(国語辞典の大辞泉などを参考にしますと)古くから、あるいは仏教上からの世界観で、前世(この世に生まれ出る以前の世)、現世(現在の世)、来世(死後に行く次の世)との考え方があります。その中で、今回の言葉の解釈では、現在(現世)偶然会っていると思われる人でも、実は前世で既に何かの関係であったことがあると言うことのようです。
不勉強者の私が、仏教的な教えとか上記のようなことが正しいかどうか分かっていませんが、私なりの解釈を改めてしてみました。袖振り合うも多生の縁の簡略化した解釈は、「生きている以上、ささやかな事柄からであっても、人は色々な、様々な方々との出会いがあるので大切にした方が良い」と言う意味だろうと思っています。結局のところ、これは私が学生時代に色々な方に教えて頂いたことと、ほぼ同じことかなあとも思いました。
あと、私は、聞いた言葉シリーズ(目次)の第81回目に夏目漱石の小説『草枕』から参照し『とかくに人の世は住みにくい』の言葉を掲載中です。このページには、人の出会いや付き合いの大切さを分かりつつも、逆に難しい面があることも、あの大文豪をもってしても書いておられると紹介しています。
私の住んでいる地域でも何かの会合や行事で知り合っても、その後どうなって行くかは千差万別ですが、漱石先生もおっしゃっておられる通り、色々なことがあっても、それは人の考えと行動だからと思います。今回の袖振り合うも多生の縁は、今後も続くことでしょうから、私の出来る範囲内ながら大切にしたいなあと改めて思いました。