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聞いた言葉・第163回目、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し(すぎたるはなおおよばざるがごとし)

 今回のこの言葉、日常の会話でも、あるいは新聞やニュースなどでも、たまに聞くことがあります。国語辞典には、次の<>内のことが書いてあります。<過(す)ぎたるは猶(なお)及ばざるが如(ごと)し=(「論語」先進から)何事でもやりすぎることはやり足りないことと同じようによくない。(国語辞典の大辞泉より)>

  この言葉の語源は、先の国語辞典にある通り、論語ですから当然、孔子の話しからです。 このページでは語源となっている論語の詳細は省略しますが、ある二人の人物を評価をした時に孔子が述べたと言われているようです。簡単に言えば「やり過ぎ」、「出来過ぎ」、「過剰」みたいなことは、なんか見た目いいように見えても、「結果、足りないことと同じように良くない」と言う意味だろうと思います。

 そのような語源から、この言葉を普通に使う場合は、人の行動などを見てマイナス評価として述べられる場合がほとんどです。例えば、「あの人は、仕事で真面目な性格なのは良いが、あまりにも杓子定規(注1)で全く融通が効かない、だから商売相手とうまくいっていない」 とか「あの人は、人を信用するのはいいのだが信用し過ぎて、口の上手な人から逆にだまされやすい」などの使用例です。

 (注1)=<杓子定規=(曲がっている杓子を定規代わりにすること、正しくない定規ではかることの意から)すべてのことを一つの標準や規則に当てはめて処置しようとする、融通のきかないやり方や態度。また、そのさま(大辞泉より)>


  このような会話は、長年生活していれば同じようなこと、あるいは少し違ったことでも大なり小なり誰でも見聞きするものです。 そのような経験からして、孔子の言われた今回の言葉は、ある面良く分かる内容でもあります。中には、仕事場だけでなく地域活動や趣味の親睦会での会合などでも、たまにそのような場面を見聞きする時もあろうかと思います。

 あと、この言葉は、本来の語源である人物評価のことだけでなく、日常的には商品や物などを評価する場合にも使われているようです。私は、既に(聞いた言葉シリーズ第154回)「金太郎あめ教育の破綻」ページに 日本の家電製品について、例えばテレビの何十個とあるリモコン操作ボタンの件を例に挙げて下記<>内の通り書いています。

 <薄型テレビなどは、大画面や高機能化一辺倒みたいなやり方でした。これらは販売当初から、「後で、何十インチかの ・・・機能付きのテレビが出るのでは?」と誰でも予想がつくようなものでした。結果として、他社と差をつけるためか、 高機能化偏重になり操作ボタンを付け過ぎて、消費者が簡単に使えないようなリモコン付きテレビなどは、その分かりやすい例ではないでしょうか」>

 上記例は、「操作ボタンが多過ぎる=高機能化一辺倒=過ぎたる機能の付け過ぎは、結局使いにくい」と言う意味は、今回の言葉で物を例える代表例みたいなものではないでしょうか。これらは極端な表現かもしれませんが、家電メーカーから「さあ、消費者の皆さんよ、これだけでの多機能ボタンを付けてやったから、さあ使いきれるなら使って楽しんでみよ」と言われているような気がします。

 私は、高度な技術や高機能を全面否定している訳では、決してありません。日常操作するリモコンボタンならば、切手並みの大きさまでは不要ですが、せめて鉛筆の直径位のボタンを5つほど付けて、あとは必要に応じて触る程度に集約すれば高齢者などにも喜ばれるのではないでしょうか。これらのやり方は、何も高齢者の方ばかりではなく、操作に慣れている若い方でも便利だとも思えます。

私の関係ホームページ
 金太郎あめ教育の破綻
 とかくに人の世は住みにくい
 人の気持ちは変りやすい
 常に自制心と謙虚さを持って
 組織は人なり
 人は言うことよりも、やることを見よ

 上記例は、本来の語源の意味からすれば離れたことを書いたかもしれません。でも、多機能過ぎる家電や物でも、結局、人が日常で使えるか、つかえないかの尺度で言えば、やはり過ぎたるは猶及ばざるが如しではないでしょうか。

 今回の言葉は、既に同じようなことを繰り返し書いてきましたが、人でも商品でも物でも「そこそこの程度が接しやすく、話しやすく、使いやすい」と言う意味でもあろうと思います。人の場合は、そのことを分かっておられて、その場の雰囲気に合わせた(抑えたような)行動ができる人が、真の意味で「あの人は本当に優秀だ」と評価されているようです。


(記:2013年1月21日)

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