大洪水よ我が亡きあとに来たれ
今回のこの言葉、諸説あるのですが、一般的にはフランス・ルイ15世の愛妾であったポンパドゥール夫人の言ったこととされています。 夫人の宮廷内での浪費・華美な使い方をとがめられた時の言葉「Apres moi, le deluge」とされています。(私は仏語は不明ですが、「「Apres」のe及び「deluge」の前の方のeの上には点が付くようです) この仏語の日本語訳として 「我が亡きあとに洪水よ来たれ」とか、または「大洪水よ我が亡きあとに来たれ」で伝わっているようです。
私は仏語はおろか英語もできないのですが今回、フランス語版、英語版ホームページでも先の言葉を入力して検索し、翻訳サイトで自動訳して見てみましたが 、けっこうなページが表示されました。折にふれ様々なテーマで語っておられるのだろうなあと想像しました。
あと、この「我が亡きあとに洪水よ来たれ」は、日本では「後は野となれ山となれ」も同意語で、むしろこちらの方が日本人的はピッタリくる言葉です。
現代では色々な使われ方をしていますが、とりわけ多いのが、今の浪費型社会あるいはルールなき資本主義のあり方を問う時に持ち出されるようです。
つまり、何十億年の地球や何十万年にも及ぶ人類の歴史からすれば、瞬きにもならない現代の一瞬のために、「自分の会社が儲けさえすれば・・・」、 「自分さえ金儲けで良くなれば・・・」の後に続く言葉として「後はどうなってもかまわない」と言うことです。
この種の言葉は、大勢がいる前とか記者会見などではあまりにも露骨過ぎて公然と言われる方は、まずいないと思われます。 しかし、表に出して言うか、いわないかは、この際あまり問題ではありません。
要は表だって言わなくても、また最初からそのような考えはなかったとしても、結果として何も対策をせずに実行していたら、それは一緒のことです。例えば、地球温暖化の件で1997年京都で開催された(会議の問題や決まった内容の問題点は色々あるのですが)京都議定書の件で、先進諸国の中で唯一アメリカは離脱しました。
アメリカの離脱理由は様々でしょうが、当時の報道の中で覚えているのが「京都議定書を認めたら、アメリカの国益を損なう」みたいなことを言っていました。一応”国益”とかの表現を使ってはいますが、結局のところ大儲けしている大企業の制限をしたくないと言う同意語のようにも思えます。このことは、何もアメリカだけではないと思われます。
言うことはだけは世界や日本を代表して立派なことを言ったとしても、やっていることが今回のような「我が亡きあとに洪水よ来たれ」=「後は野となれ山となれ」では、何の意味もないとことだと思います。また、例えば分かりやすい例として、地上デジタル放送の件ですが、(2008年現在)いいことばかり、推進することばかり報道されていますが、負の側面などは何一つもないのでしょうか。また、そのことは報道しなくてもいいのでしょうか。
庶民レベルでは「このテレビはマダマダ使えるのに地デジで買い変えないと見れないのか」とか、町内の順番で「先週は資源ゴミ担当の日」、「翌週の水曜日は燃やせないゴミ当番の日」、「先日、あの人は産業物廃棄監視パトロールで廻っていたなあ」などと、大なり小なり色々とやってきているし、これからもしていくと思われます。
しかし、大もとの、もっともっと大きいところが(公言しないまでも)今回の言葉と同じやり方では、いつまでたっても直らないし、さらに悪化していくのは目に見えています。今回の言葉で同意語として書いた「後は野となれ山となれ」の日本の野山は、テレビ、車、その他産業廃棄物を捨てる所ではないと思います。