金の切れ目が縁の切れ目
今回のこの言葉を国語辞典の大辞泉で調べると、金の切れ目が縁の切れ目 =「金銭で成り立っている関係は、金がなくなれば終わるということ」と書いてあります。 この言葉、一般には男女関係のことを指していると思われますが、商売や金銭にからむ仕事関係にも極普通に使われていると思います。なぜ、男女関係で多く言われるかといいますと、たぶんに”縁”という言葉が間に入っているからだと思います。
あと、仕事関係で、この言葉の前後に大抵付く話が(仕事上での付き合いがなくなったら)「あいつは、手の平返したように電話一本もよこさなくなった」とかも良く聞きます。このことは、個人的な交友でなく仕事関係で親しくなり、夜の居酒屋や休みの日の付き合いもしていたのに失業や定年退職などで、仕事上の付き合いがなくなれば全ての親交がなくなった時に言われているのではないでしょうか。
私個人は、自他ともに認める貧乏人ですから、最初から「金の切れ目」になるはずもないでしょうし、それにそのことが分かっておられる人は、無駄を承知で金目当てで近づいて来る人もいないでしょう。このように私の場合、ある意味では非常に分かりやすいので、「金の切れ目」も「縁の切れ目」にも無縁の方がまわりにいらっしゃるのだと信じています。
あと、このページに私が書いていますのは、今回のこの言葉、一般人だけに関係していないとも思えます。特に、政党や政治家についても同様だと言えます。もう先刻ご承知のこととは思いますが、改めて政党を国語辞典の大辞泉で紐解くと政党とは共通の政治的主義・主張をもつ者によって組織され、一定の政治的利益や政策の実現のために活動し、政権獲得をめざす集団」と書いてあります。
つまり、自ら決めた政策実現のため結束して日常活動や選挙運動をして政権獲得(維持)を目指しているはずです。ですから様々な事由により政治家個人の出入りはあっても、政党そのものが四分五裂(しぶんごれつ、大辞泉では「いくつにも分かれること。秩序をなくしてばらばらになること)に普通ならならないはずです。
国民としては、その政党や政治家(政策の実現など)を信じて一票を投じているはずですから、当選者は必ずといっていいほど「国民の負託に応えたい」などと発言しています。そのような政党や政治家が、その後様々な理由を付けてはいますが、「何をするにも何でも自由だ」のごとく政党の出入りを繰り返したり、また投票していただいた政党を離れ新党結成させるのは、国民の思いとは全く逆行したものです。ただ、この政党のくっついたり離れたりの繰り返しは非常に多い状況で、50年以上の歴史ある政党は日本では稀(まれ)とも言われています。
中には自分の考えと所属政党の見解などの違いから「こんな政党では国民からの負託に応えられない」などと言って、それまで所属していた政党と袂(たもと)を分かつ人もいますが。これなんぞ気安く「国民」とか「負託」とかの用語を使わないで欲しいと思います。自ら所属している政党のこともうまく出来なくて1億何千万人もいる国民の要望、政策や舵取りなど不可能だと証言しているようなものです。
あと、私は『聞いた言葉』シリーズ第111回目に「首相辞任のキーワード=国民との矛盾」を書いています。このページに極簡単に書けば突発もしくは分かりにくい首相辞任騒動があった場合、その理由は大抵が「国民との矛盾が原因ではないか」とまとめています。
このことと政党の四分五裂、新党や政治家の政党出入りなどと違うかもしれませんが、表面上に出ている「政党内における政策や行動の違い」と言う、もっともらしい理由よりも、実際は違うことに原因があるとも言われています。それは、ズバリ財政上の問題つまり「金の切れ目が縁の切れ目」であると。
なぜこのような理由があるとかに書けば大変長くなりますので、いずれのシリーズに掲載したいと考えています。ただ、言えるのは国民一人一人の浄財(個人の政治献金)に依拠していない政党や政治家が、政策よりもお金(利権)で結びついていたと考えた方が、より分かりやすと思われます。それが、うま味(利権)がなくなったので、その別口を探して右往左往している状態と見た方が、より近いのではないでしょうか。
また、国民の多くの願いや政策とは無縁の政党や政治家の選挙目当ての動きでしょう。しかも、マスコミは地道にコツコツと本来の政治活動をしている政治家の動きよりは”面白可笑しい”のか、あたかも重要な動きのごとく何十年も前から、この種の件で繰り返し集中報道をし続けています。そのため局面局面では、国民とは無縁の動きであっても、ニュースそのものが目くらましとなって票を多くとる場合もあります。
だからこそ何十年たっても政党の四分五裂、新党や政治家の政党出入りなどが、繰り返し行われているのでしょう。投票する国民の側も、この種の”動き”を重要視するのではなく、本来の要望や政策実現のために地道に奮闘している政党や政治家を自らの目で見定める時代に入って来ているのではないでしょうか。