出る杭(くい)は打たれる、出ない杭は腐る、出すぎた杭は打たれない
まず、今回の言葉の中で、先に「出る杭(くい)は打たれる」について、広辞苑に解説してありますので、次の<>内を参照願います。 <出る杭は打たれる=すぐれてぬけ出ている者は、とかく憎まれる。また、さしでてふるまう者は他から制裁されることのたとえ。「出る釘は打たれる」とも。>(広辞苑より)
さらに、上記の言葉と関連して、日本故事物語<池田 弥三郎(著) 河出書房新社 発行:1978年4月30日>の112ページには、「雉(きじ)も鳴かずば打たれまい」の項目に次の<>内が解説してあります。(注:太文字は上野が付けた)
< 雉も鳴かずば打たれまい
雄子は、特にその雄は、鋭く鳴きたてる。その声のためにその所在を人に知られ、人に打たれてしまう、ということ。だまっていれば、わざわいが身に及ぶこともなかったろうに、という教訓である。従って、
言わぬが花
出る杭は打たれる
さわらぬ神にたたりなし
などとも関連して、事なかれ主義、引っこみ思案のすすめなどにも通じている。 (後の文は全て省略) >
この広辞苑と日本故事物語を読みますと、「出る杭(くい)は打たれる」の意味は、分かりやすいです。ただし、後者で、「事なかれ主義、引っこみ思案のすすめなどにも通じている」の表現は、さらに突っ込んだ表現と思えました。
あとの二つ「出ない杭は腐る」、「出すぎた杭は打たれない」の言葉は、様々な方々が、先の言葉に足されたものと、私は理解しています。この二つの言葉自体は、補足解説も不要なくらい分かりやすい言葉ですので、それ点は省略します。
出る杭は打たれるの言葉は、私が思うに広範な社会(例えば全国的な事柄、政治、地域など)から、比較的狭い組織(例えば会社などから何かの親睦団体に至るまで)でも使われて、陰に陽にも語られているようです。また、分かりやすい例として、芸能界などで少し有名なった歌手や俳優が他の方と違ったような言葉が出た場合、よってたかってのパッシングみたいなことでしょうか。
しかし、それらに打ち勝って、逆に国内でも世界でも実力が名実ともに認められて、どこかの国際大会の表彰(勲章)などを受けると、今度は逆に”称賛の嵐”みたいなこともありました。その時こそが、出すぎた杭は打たれないのでしょう。
重複した書き方なりますが、出る杭は打たれるは先の解説通り、元々は「事なかれ主義、引っこみ思案のすすめ」なのかもしれません。しかし、本当に自らの知力・技術力・想像力・判断力・将来性などのある方ならば、様々な批判などがあっても、まるで馬耳東風(ばじとうふう=人の意見や批判を、心に留めず聞き流すこと。広辞苑より)みたいにされるのかもしれません。そして、結果として、多くの方の頂点や先頭に立たれるのでしょう。
ただし、実力や技術力も全くない方が、何かを成し遂げるために、いくら主張だけされても回りも、さらに言えば広く社会一般に認められるものにはならないのかもしれません。しかし、その能力が発展途上段階で、チャレンジ精神があるならば、それは、やらずに後悔するよりも、結果たとえ失敗して泣きを見たとしても、何か次のステップにつながるような気がします。
私は、「聞いた言葉シリーズ第42回目」の『たゆたえども沈まず』ページに、次の<>内のことも書いています。 < (前略) 人には色々な生き方が、それこそ人それぞれにあるかと思います。自分の考えと行動力を信じて、それを貫き通されるような立派な方もいらっしゃいます。また、自分の心ならずとも、やむを得ず、仕事やその他共同歩調を取っておられる方も、これまた沢山いらっしゃるかと思います。
はた目から見れば、自分を押し殺し、妥協してばかり見える人でも、それは当面の生活や仕事の乗り切りをはかるためだけであり、頭の中では、ちゃんと流れの行き着く先を見据えておられるような方もいらっしゃるかと思います。 (後略) >
つまり、出る杭は打たれるの意味は、「事なかれ主義、引っこみ思案のすすめ」というより、上記の<>内の意味もあるのではないかとも思っています。いずれにしても、中途半端なやり方では、他の方々も評価されないでしょうし、それは決して、出すぎた杭は打たれないの状態にはならないでしょう。
私には、その能力が無かったので次のことをいうのは、おかしいことかもしれません。しかし、今回の言葉を調べてみて改めて思うのは、実力やチャレンジ精神ある(特に若い)方は、出すぎた杭になって頂き、批判していた人々を見返すだけに終わらず、他を圧倒するくらいの到達点を願っています。