李下(りか)に冠(かんむり)を正さず
今回の言葉は、私のような貧乏人の庶民も少しは関係ありますが語源から考えれば、どちらかと言うと公職(政治家や公務員など)を指していると言えます。 この言葉の語源解説が、中国故事物語(河出書房新社、1978年4月30日発売)の300〜301ページ、「李下(りか)に冠(かんむり)を整(ただ)さず」の項目に書いてありますので、そこから引用して書きます。
この言葉の経過や解説は、けっこう長くて、全部は書けないので、まとめ的に、次の<>内のことをご紹介します。<「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を整さず」という語は、瓜(うり)の実っている畑で履(くつ)をはきかえると、 い かにも瓜(うり)を盗ったように思われるし、李(もも)が実っている下を通るとき、手をあげて冠(かんむり)をなおそうとすれば、いかにも李(もも)を盗 ったように思われるから、そういうような、 人から疑われるようなことは避けるという意味である。 >
現在、国語辞典のデジタル大辞泉などでは、李下に冠を正さずと表現されています。いずれも意味は、先の通りで同じです。 あと、前出の中国故事物語には、この言葉が話された経過や要因も詳細に書いてあります。長い文章なので、私の方で極簡単に書き直せば、次の通りの解釈ができるでしょう。
斉の威王(中国の戦国時代、在位:紀元前356年 〜紀元前320年)は即位してから何年も経つのに一向に国が収まりませんでした。そして、その原因は、自ら重用していた(あえて分かりやすく表現するならば、今で言う首相みたいな役職の)部下に問題がありました。しかし、威王は、その真の原因を正そうと意見具申した別の部下を、逆に遠ざけていました。
でも、何かおかしいと悟った威王は、自ら調べてみたところ、今まで重用していた部下に問題や不正があったことが判明しました。そして、直ぐさま、李下に冠を正さずのような清廉潔白な別の部下を登用したところ、斉の国はおさまり、そして隆盛していきました。以上が、今回の言葉の経過説明です。
つまり、李下に冠を正さずは、もちろん言葉通り、「人から疑問を持たれる行為はするな」でいいのですが、語源の経過や背景からして、「いかに清廉潔白で信頼のおける部下を見極めるか」、「(そのような)いい人材を国の大事な役職に登用するか」が、政治をおこなう場合、大変重要だと問うているのです。
ひるがえって、我が日本は、どうでしょうか。今回の言葉は、「もう二千年以上も前の話だから関係ない。死語だ」と言わんばかりに、各大臣、国会議員、地方自治体の首長や地方議員も、国民と交わした公約破棄以前の事柄として、”金にまつわる諸問題”(贈収賄、不正選挙資金、汚職など多数)が、長年、毎年のように続いて一向に良くなったことはありません。
人によっては、「企業献金と言う名の賄賂(わいろ)」と言う表現もありますが、その企業献金廃止が前提みたいに言われて導入された政党助成金(全て国民が納めた税金)の使い道さえ、間違っている政党もあるようです。清廉潔白どころか、「二重取り、三重どり」と言われても仕方ないでしょう。しかも、東日本大震災対応などで、国としてもお金が要るのに、政党助成金は全廃が望ましいが、たとえ何年かの一時期間だけでも受け取らない政党がいくらあるのでしょうか。
口先では、「被災者の気持ちになって」、「被災者のために」、「復興のため」などと言ってますが、「人は言うことより、やることを見よ」の尺度で考えるなら企業献金も受け取るなら、最低でも政党助成金は受け取らないのが、常識と思えるのですが、そのような指摘は、この政治の世界では通用しないのでしょうか。
私は、政治家と言えども人間ですから、「一点の曇りがない」とか「聖人君子(知識や徳の優れた、高潔で理想的な人物。デジタル大辞泉より)でないとダメだ」と言っている訳ではありません。しかし、最低でも、「人から後ろ指される」ような人は、政治家などには最初から向いていないし、選挙民も選ぶ目を持つべきではないでしょうか。
この世の中には、地面に砂糖をこぼしたら、まるで蟻(あり)が寄ってくるように、金や利権と言う名の”甘い物”に群がる世界もあるのでしょう。また、日本の場合「政治屋稼業」みたいな政治家が多いようですが、欧米の場合は、国民奉仕・地域奉仕のボランティアみたい政治家が多いとも聞きます。ただし、念のため全部がぜんぶ、そうではないから問題を起こし、辞任に追い込まれる人もいるようですが。
それにしても日本は、いつまでも経っても金にまつわる様々な諸問題がまかり通るのでしょうか。日本の政治家は、口先では「国民のため」、「天下国家、国際貢献を果たす」みたいな大変高尚なことを言われています。
しかし、現実の姿は結局のところ、今回の言葉=李下に冠を正さずみたいな道徳心などが通用しない人のようでもあります。それならば、今以上に法律で律するしか方策はないように思えますし、国民の側も澄んだ目で見極めなければならないでしょう。今回の中国の古い言葉は、現在にも通用させなければ、先人から笑われるだけのようです。